「講義型から対話型へ。世界で活躍する人材を育てる『考える教育』」~特別講義「教える」から「考える」へー答えなき時代の教育トレンドー

 日本の高度成長を支えた、「正解」をいかに早く覚え、再現するかという従来の教育は、「答えのない時代」を迎えた今、うまくいかなくなった。日本の国際競争力を高める人材を育成する上で、障害となっているものは何か。21世紀の教育が目指すべき方向は何か。本連載では、特色ある教育制度を取り入れている先進国の動向から、日本の教育改革の方向性を導き出す。

引用 大前研一:特別講義「教える」から「考える」へー答えなき時代の教育トレンドー
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〇 幼稚園から起業家を養成するフィンランド

 ここまでアジアの「教える」教育について述べてきましたが、対する「考える」教育とはどのようなものか。北欧の例を見ていきます。フィンランドでは、1990年代の経済危機の際、人口550万人に満たない小さな国に閉じ込められていたら自分たちの将来はない、世界で活躍できる人材を育てようということで、この「考える」教育に舵を切りました(図-24)。

 優秀な企業を増やしていくために、幼稚園から「起業家養成コース」を設けています。具体的に何をするのかというと、幼稚園児を連れて青果店に行きます。そして、店のおじさんがどうやってお金を稼いでいるのかを考えさせるのです。

 仕入れをし、その代金を払う。お客さんが来て、野菜を買う。そういった一連の過程を実際に見て、「売れ残った野菜が棚の上で腐ってしまえば、このお父さんと家族は食べていけないですね。では、どうすればいいでしょう?」という議論をするのです。損が出ないように青果店を経営していく方法を考える教育です。

次 の機会には果物店に行って、儲けが出る方法を自分で一から組み立ててごらんという課題を出します。お金を稼ぐというのはどういうことか、商売の仕組みはどうなっているかという答えのない問いを、みんなで議論してじっくり考えるのです。

 図-25は、「教える」教育と「考える」教育の違いを図説したものです。左側の「教える」教育では、「2+3はいくつ? 答えは5です。分かりましたね」と先生が生徒に教えます。正解なら○、間違っていれば×です。一方、右側の「考える」教育では、〇も×もないのです。「5とは何だろう? リンゴが5つあったらどう分ける?」と、そもそも問いの立て方が違う。0+5でもいいですし、3+2でも、いくつ答えがあってもいい。目的によって議論の方向性も、答えも変わってきます。それをクラスでディスカッションするのが「考える」教育です。

〇 「考える」教育は記憶に残りやすい

「考える」教育は、思い付きで導入されたわけではなく、科学的根拠があります。図-26を見ていただきたい。学習方法によって、人間の記憶率がどう変化するかを表しています。講義を受けた人の平均記憶率は5%、読んだものは10%、視聴覚教材を取り入れると20%、実験機材などを使うと30%。ここまでが、通常の日本の教育です。

 一方、北欧の「考える」教育は図の下半分が中心です。グループ討論の平均記憶率は50%。「青果店に行った」「果物店に行った」など、体験を通じた学習が75%。「君はもう分かっているようだから、この人に教えてあげて」と他人に教えると、記憶は90%残ります。つまり科学的に、「考える」教育は記憶が残りやすいのです。

 この図を見ると、日本の教育方法の欠陥が一目瞭然です。日本では試験の〇×によって偏差値が決まり、人生が決まってしまうため、必死で暗記をするわけですが、記憶が定着しない学習方法ばかりですから、試験が終わると同時に記憶が消えてしまいます。北欧がなぜ「考える」教育にシフトしたか、もうお分かりいただけたと思います。教えない、「考える」教育によって、試験のためだけではない、実際に役立つ知識が身に付くのです。

〇 スウェーデンの改革はなぜ失敗したか

 スウェーデンはこの改革をさらに進めて、教育権を地方自治体や個々の私立学校に移しました。ところが、貧しい地方ではこれがうまくいかず、教育の質にも大きな差が生じて、前述のPISAでも大幅に順位を下げてしまいました(図-28の左側)。

 また、スウェーデンの公立学校は授業料がかからなかったのですが、図-28の右側にあるように、個人の選択の幅を広げるという名目で私立学校を導入しました。この結果、富裕層の子供が都市部のフリースクールを選択するようになり、教育格差が広がってしまった。特に数学などの科目では、親の学歴が低いほど子の学力が低いという相関関係があります。スウェーデンの例からは、改革を進めると同時に国家が最低限の水準を保障することの重要性が分かります。

 

 

 

津田大照

誰にとっての「問題」なのか。子供の問題行動を問題にする人たち

誰にとっての「問題」なのか。子供の問題行動を問題にする人たち
リンク)より転載

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教育現場で耳にする「問題児」や「問題行動」。はたしてそのすべてが本当に「問題」として解決しなければならないことなのでしょうか。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師の松尾英明さんが、「イレギュラー」を受け入れ「楽しむ」という姿勢が教師や大人たちにとっていかに大切かを説いています。

■「問題児」が問題か

赤坂先生のセミナーでの学びの続き。

個人的には好んで使わないが、いわゆる「問題児」という言葉がある。要は、「イレギュラーな動き」をするお子さんである。こう言われてしまう子どもたちに対し「どう思うか」と投げかけられた。

近くにいるサークルメンバーと話したが、揃いも揃って「面白いよね」という意見である。みんな経験豊富なので、基本的に前向きである。

仲間曰く「それは制度設計に含まれているべき」という意見。全く同感である。そもそも、みんな予想通りの動きでお利口さん、みたいな学級があったら気持ち悪い。もしそんな学級があったら、「異常に抑圧されている」というような、歪みがあるはずである。

講師の赤坂先生から参加者へは「先生を楽しんでいますか?」との言葉が投げかけられた。これが最も大切である。

多くの教師が集まるある大きな会で、各提案者からの実践発表があったという。その中で最も観衆の心をつかんだのは、経験豊富なベテラン勢ではなく、新卒の初任者の先生の発表。クラスの「元気のよい」子どもに「カエルを投げつけられた」という出来事を、実に楽しそうに語ったという。

人によっては、「問題児」扱いかもしれない。しかし、その先生にとっては純粋に「びっくりした!」という出来事である。それを一緒に楽しんでしまえる姿勢。これこそが、今、すべての教師に本当に求められている姿である。

「問題行動」を問題にしているのは、実は大人の方である。教師や親の方である。子どもたちにとっては、問題でも何でもないかもしれない。

先生を楽しんでますか。

見つめ直したいテーマである。

 

 

 

紀伊谷高那

大学に意味があるか?~スタンフォード大学の事例より

スタンフォード大学の学生も、日本の学生と同様に、卒業後の進路に悩むことが多いという。下記の教鞭をとっているビル・バーネット教授のインタビューを読むと、先進国では大学に進学する意味が本当になくなっていることを実感する。

ビジネスインサイダージャパン リンク より
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スタンフォード生も卒業後の進路に悩んでいる
先生が教鞭を執るスタンフォード大学では、卒業後の進路に迷う学生が少なくないそうですね。日本でも状況は同じで、人生の目的を見つけられないまま大学を出て就職し、社会人になっても「自分探し」を続けている人が多いのが現状です。それはなぜだと思いますか。

バーネット:大学を出たての20~30代の若者が、自分の好きなことを既に見つけ、自分に合った道を歩んでいることの方が稀なんですよ。アメリカの統計では、大学の専攻と関係する仕事に就く人は全体の20%しかいません。

大人はよく若者に「大きくなったら何になりたい?」と聞きますが、まだ成長過程にいる彼らがはっきりと答えられないのは当たり前のことです。自分が情熱を傾けられるものも、もう少し後に出合うかもしれませんし、それも年齢とともに変わっていくかもしれません。

打ち込むものがない若者たちに、固定観念の強い間違ったアドバイスをたくさんして、プレッシャーを与えてしまう大人たちもいけませんね。

また最近の傾向としては、SNSや携帯電話の影響で、他者と比較をして劣等感を抱いてしまう若者が多いのも事実です。子どもの頃から携帯やSNSとともに生活してきた彼らは、他者とつながりを築くのも下手で、孤独感を感じているようです。

豊かな人生を送るためには、人とのつながりを持つことはとても大切です。特に若いうちは、人とのコミュニケーションのとり方をたくさん学んでほしいですね。

〇天職とは自分でつくっていくもの
理想のキャリアを考える時、私たちがよく想起するのが「天職」という言葉です。天職には「自分にぴったりフィットする、天から授かった職業」という意味がありますが、これに対してはどうお感じになりますか。

バーネット:もちろん、ダンサーや絵描きなど、幼い頃から魅了される世界に飛び込む人もいます。この場合、食っていけないことも多く、いろいろと折り合いをつければならないこともあるでしょう。

しかし、こうした人たちはほんの一握り。ほとんどの人は後から「天職」となる仕事に出合うことになると思います。

というのも、人はまず仕事を始めてみて、それが上達して自信がついた時、その仕事が自分の「キャリア」と呼べるものになっていくからです。そして、キャリアを積み重ねていくうちに、気がついたらそれが「天職」と呼べるものになっていく。

だから天職は、初めからあるものではなく、自分でつくっていくものだと思います。
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天職は自分でつくっていくものというのはその通りと実感する。
ならば、様々な体験を通して見つけていくものであり、大学というモラトリアムにいては見つかる筈もない。

 

 

 

蔵端敏博

国語は、論理整合力の獲得へ

リンク より引用
先般、今日の講演の打ち合わせのためにいらっしゃった先生方と早速その話になりまして。「論理国語って何ですか、一体。意味が分からないです」と伺いました。ネット上では、かなり批判的なことが書かれていましたけれども、「論理国語」の実体が分からないので、コメントしようがない。

 そうしたら、そのときにいらっしゃった先生が、論理国語の模試の試験なるものを見せてくれました。ご存じの方も多いと思うのですけれども、生徒会の議事録と生徒会の規約が掲載されていて、その議事録と生徒会の規約の文言を読んで、年度内に生徒総会を開くことは可能かどうかについて答えよというのが「論理国語」の模試問題でした。思わず、天を仰いで絶句しました。

>「論理的にものを考える力」それ自体はたいへんけっこうなものです。文章の階層構造を理解したり、断片から全体の文脈を推理する力は複雑な文章を読む上では必要不可欠ですから。でも、申し訳ないけれど、規約とか契約書というのはまったく「複雑な文章」ではありません。誤解の余地のないように、一意的に理解されるように書かれたものです。そういう「可能な限り簡単に書かれたテクスト」を読むために、わざわざ「論理国語」というかたちで教育内容を分離して、従来の国語では教えられなかったことを教えるということの意味が僕にはわからない。そんなものを「論理」とは呼ばないだろうと思いました。

 論理国語の問題を読まされて、「論理とは何のことか?」と改めて考えました。まずその話をします。

「論理的に思考する」というのは、僕の理解では、断片的な情報を総合して、一つの仮説を立て、それを検証し、反証事例に出会ったら、それを説明できるより包括的な仮説に書き換える・・・という開放的なプロセスのことだと僕は思います。

>子供たちに学校教育を通じて何を教えようとしているのか。もし、子供たちの中で知性が活発に働くことを教えようとしているのだとしたら、子供たちに教えるべきことは「知性はジャンプする」ということだと僕は思います。

 しかし、実際に、子供たちも「ジャンプ」しているのです。それは子供を観察しているとわかります。子供たちを自然の中に連れていって、そこにしばらく放置していると、わかる。子供たちの知性は「論理的に」活動し始めるのが観察されます。

 養老孟司先生が、「子供たちなんて学校で教育なんかすることないんだ。自然の中に放り込んどきゃいい」と割と乱暴なことをおっしゃいますけれども、これは一理あるのです。子供たちを自然の中に連れて行って、ゲーム機や携帯やマンガや玩具の類を全部取り上げてしまう。何も持たせずに、ぽんと自然の中に放り出しておく。するとどうなるか。子供たちは死ぬほど退屈する。まず退屈するというのがとてもたいせつなのです。

 退屈しのぎに、子供たちは必ず何かを観察し始めます。ほうっておいても、そうなります。退屈しているんだけれど、手元に退屈をまぎらわすための道具が何もない。そんなとき、人間は何かをぼんやり観察し始めます。空の雲を見たり、鳥の声を聴いたり、虫を眺めたり、川の流れを見たり、海の打ち寄せる波を見たり。何か自分の好みの対象を選んで、それをぼんやりと観察し始める。

 最初のうちは、ただぼーっと見ているだけです。自然をぼんやりと観察している。でも、そのうち、何かの弾みで、子供の目がきらりとする瞬間がある。それは「パターン」を発見したときです。

 自分の前に展開しているランダムな自然現象の背後に、実は法則性があるのではないか・・・というアイディアが到来したときに、子供の目がきらりと光る。そういうものなんです。一見するとランダムに生起する事象の背後に数理的な秩序があるのではないか、という直感が到来する。雲の動きでも、虫の動きでも、波の動きでも・・・ずっと観察しているうちに、そこに繰り返しある「パターン」が再帰しているのではないかというアイディアがふと浮かんでくる。そうするといきなり集中力が高まる。もし自分の仮説が正しければ、「次はこういう現象が起きるはずだ」という未来予測が立つからです。果たして、その予測通りの現実が出来するかどうか・・・子供だって、そのときは息を詰めるようにして、次に起きることに意識を集中させます。

>学校教育で教えるべきことは、「跳ぶ」ことの喜びだと先ほど申し上げました。目の前に散乱している断片的な情報や事実を観察しているうちに、すべてを説明出来る仮説を思いつく。おお、ついに統一的で、包括的な真理を発見したと思って、欣喜雀躍する。論理的思考が導くならば、それがどれほど法外な「コロラリー」であっても、それを検証しようとする。それが「跳ぶ」ことです。

 でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。

 今の日本の子供たちに一番欠けているのは、こう言うと驚かれるかも知れませんけれど、知力そのものではなくて、知力を駆動する勇気なんです。自分の知力に「跳べ」と言い切れる決断力なんです

 

 

望月宏洋

寺子屋教育に学ぶ真髄

松下政経塾」さんの記事を紹介します。
リンク

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■江戸幕末期の教育 ~寺子屋教育の考察~
【江戸寺子屋の教育】
 (前略)
  江戸寺子屋の教育観は、「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文十二、理十五で末決まる」という諺にみられる段階的養育法に基づいている。すなわち、人間の成長段階に相応した養育を肝要とする明確な教育哲学のもと、寺子屋の教育課程が展開された。

  人間は「脳・身体・心」の三つから成り立ち、心こそが脳と身体を結び操る要であるとの認識に基づき、3歳までに脳と身体と心の関係を悟らせ、心の重要性を実感させることを養育の旨とした。それ故、まずは親のしぐさ・行動を見習わせることが肝要であるとした。6~7歳になると、寺子屋では、自発的に師匠・親・兄弟姉妹・世間を見つめ見取るように仕向け、観察力・洞察力を涵養、9歳までには、公的挨拶の習得を目指し、立居振舞を体得させた。8~9歳では師匠の口真似、10歳には説教の内容の咀嚼が目安とされた。12歳頃には、一家の主の代筆を担える程度の事務作業能力を目指し、15歳頃には、経済・物理・科学など森羅万象を実感として理解できるようになることを想定して指導にあたった。

  以上より、江戸寺子屋教育の特徴を総括するならば、それは、「段階的養育法に基づく、理論と実践を融合した総合人間教育」とでもいえるであろう。とりわけ、寺子屋の師匠は子どもの真の個性や得手不得手を見抜き、年齢でその子の適材適所を心得て、子供の将来に相応しい道を示唆したとされることから推測できるように、寺子屋教育において師匠の果たした役割は極めて大きいといえる。

寺子屋教育に学ぶ真髄】
 ここまでにおいて、江戸幕末期の教育環境を概観し、寺子屋教育の一般的考察を深めた上で、具体的事例として江戸寺子屋の教育について考察した。本項では、この寺子屋教育に学ぶ真髄と題して、寺子屋教育から現代に活かすべき視点について考察する。

  第一に、明快な教育観の重要性である。江戸寺子屋の教育観においては、段階的養育を基本とした教育哲学のもと、教育の目指すべき全体像をもっていた。そのため、その教育哲学と教育像に照合して、一貫した学習指導を実現することができたと考えられる。現代における教育観の根本は、確かに、憲法教育基本法に明示されている。しかしながら、それらは「個人の尊厳」「人格の完成」など、極めて抽象的なものであり、政府の示す教育目標も羅列的で全体像が見え難い。現在、教育基本法改正の議論が進められているが、人を創る教育であるからこそ、多様性を認めつつも、明快な教育観が求められよう。

  第二に、理論と実践を融合した総合学習の重要性である。手習いを中心とする寺子屋の基礎教育は、実社会での実践を想定した教育であったため、単なる知識の習得ではなく、まさに体得が求められた。それ故、絶えず理論と実践が繰り返され、その延長線上に真の体得があったのである。現在の教育をみるに、受験のための机上学習はおよそ実践的活用とは縁遠く、机上の理論に偏ったものと言わざるを得ない一面は否めない。決して受験を否定するものではないが、何のための教育・学習なのかを見つめ直し、理論と実践の双方に基づく学習の実現について考え直す余地は大きいと考える。

  第三に、道徳に基づく全人格的教育の重要性である。前項で考察した通り、江戸寺子屋では、人間は「脳・身体・心」の三つから成り立っているとする認識のもと、心の大切さを説いたとされる。すなわち、寺子屋教育では、単なる技術習得だけなされたのではなく、道徳的価値観の涵養が十分に取り入れられていたのである。現在の教育環境では、人間とは如何なるものか、世界とは如何なるものか、人間は如何に生きるべきかといったことを考察する道徳教育機会が希薄であると思われる。生き方に迷う若年層の増加の一因もここにあると考えられ、今こそ、道徳に基づく全人格的教育に着目すべきであろう。

  以上3点について考察したが、寺子屋教育に学ぶべき真髄は極めて多い。現代に生きる我々が、このように寺子屋教育を考察し、現代に活かす示唆を獲得することができるのは、歴史がもたらす大いなる遺産である。

 

 

 

匿名希望

子どもの創造性を高めるには?

スウェーデンの小学校の教科書から読み解く、子どもの創造性を高めるには?について

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イケアやH&M、VolvoSpotifyなど、日本でもよく知られるようなイノベーション
数多く生み出しているスウェーデン

Bloombergが発表した「Innovation Index 2018」によると、スウェーデンは、世界で
2番目にイノベーティブな国だという。

ノーベル賞発祥の地に住む人々は、どのように創造性を高めているのだろうか。

ヒントのひとつは地理的な背景だ。北の辺境の地にあるスウェーデンでは気候が厳しく、
人々は少ない資源を分け合い、生きるために創作工夫をしなければならなかった。

こういった特徴は日本にも共通しており、「もったいない」という言葉も生まれている。

だが、小児期の学校教育に対するアプローチは大きく異なったようだ。

6月中旬、スウェーデン大使館で開かれたイベントに登壇された明治大学鈴木賢志教授
の講演で、教育における「創造性を生み出す5つの力(*1)」が紹介された。

・質問する力
・観察する力
・関連づける力
・実験する力
・ネットワークを作り発展させる力

子供がこれらの力を鍛えるには、家庭内での教育、そして他の子供と共に学ぶ学習環境が
必要だ。

スウェーデンの小学4年生から6年生が使う社会科の教科書

「社会を発見する(Upptack Samhalle)」

を翻訳した鈴木教授の講演をもとに、子供の創造性を高めるプロセスを見ていこう。


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「なぜ?」を常に問い続ける
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子供たちが教科書を開いてまず目にするのは、この言葉。

 社会とは何かということを、あなたは深く考えたことがあるでしょうか。


どのように答えるべきか、少し考えてみましょう。

それから、社会とは何か、また社会が
どのように成り立っているかについて、同じような考えを持っているかどうかをクラスの
友だちと確かめてみましょう。

社会とは何か?ひとりひとりの答えが違うもので、ここに正解は載っていない。


さらに社会科で習う「メディア」や「個人と集団」「法と権利」といった各テーマの最後
にも、必ず答えの決まっていない問いかけがある。


この教科書はスウェーデンの学習指導要領の作成において中心的な役割を担ったスヴァー
ネリッド氏によって書かれており、一般的な社会科の知識だけではなく日本でいう「道徳」
のような内容も含まれているようだ。

なぜ勉強をしなくてはいけないのか?大学まで行く理由は?

社会のシステムはなぜこのように決められているの?
わたしたちは、小さい頃からこういった「なぜ」を見過ごしてきてはいないだろうか。

自分の子供にも「そういうものだから」と伝えて、無意識のうちに考える機会を奪っては
いないだろうか。

世の中のさまざまなことに疑問を持ち、自分で考えながら本やインターネットなどで調べ
たり、誰かと話しあったりする環境があることで子供は自分なりの世界観をつくっていく
ことができる。


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次に何が起こるか、までを想定してみる
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社会を変えたい、何かイノベーションを起こしたい、と思う好奇心旺盛な子供。

社会科の授業
ではそれをどのように実現するかだけでなく、どのような影響をもたらすかまであわせて考え
られていることがユニークである。

たとえば、身近な社会問題について一緒に考えてみるとき。教科書では

「学校のある地域にたくさんの人が住むようになり、車の交通量が増えました。

 子供たちは登校時に怖い思いをしています。この問題をどう解決できるでしょうか?」

という問いに対して「横断歩道に信号機を設置する」ことが一つの解決策として示されている。

信号機の設置は画期的なアイデアのように思えるが、これでめでたしめでたし、と終わらせる
のではない。子供たちが安全に学校に行けるようにはなったが、一方その地区では交通の混雑
が起きるようになってしまった、と問題の“その後”が書かれている。

何か行動を起こしたことで、社会にどのような影響があるか。

そこまで想像させたうえで社会問題の解決について深く考えていく練習を繰り返していくのだ。


<創造力のある子供になれるように>

この社会の教科書では、つめこみ教育というよりは、子供の自由な発想を育てるということに
重きを置いているように見えるが、大学進学や勉強へのモチベーションはどのように保ってい
るのだろうか。

上記のプロセスのなかで教科書が子供に伝えているのは

「あなたも影響を与えられる」

ということだ。影響を与えたいと思っている分野について深い知識があることは強みになる。

そして多くの人の賛同を得ることで「世論を形成」していくものなのだと書かれている。

信頼できる人物の署名や、地方新聞への投書など、なんでもいい。自分の両親や近所の人々と
いった身近な存在から学校の教師、最終的には政治家までを味方につけるためには、あなたが
誤字脱字などの誤りがなく、正しく物が書け、自分の伝えたいことを冷静に伝えられる、とい
うことを示すことが大切だと、子供のころから教えているのである。

小学生が何かしらの社会問題についてデモを行うようすまで一緒に載っている。

子供は子供なりの目線でさまざまなことを考えており、大人がそれを引き出してあげる役目を
担うことで、将来のオピニオンリーダーを育てているのだ。

 

 

 

井垣義稀

エデュケーションという学習

強制的な管理教育から、個人の自主性・主体性を最大限に生かすエデュケートな学びに変わっていかなければならないのかもしれません。

以下、(リンク)より転載。
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エデュケート(educate)の意味は英語では「教育する」という意味ですが、真実は違います。それは、「内にあるものを引き出す」というのがエデュケートの本当の意味なのです。

ラテン語の素晴らしい言葉
 
エデュケートとは元々ラテン語の1つと言われており、私も始めてその言葉の意味を知ったときには素晴らしいなと感じました。大多数の人にとっての教育の正解とは、誰かの決めたこと(殆どの場合は政府の学校)に従って教えを受ける事だと思います。ようするに、国などが決めたことを受動的に嫌々ながらでも受けてこそ初めて1人前になれるという考えです。誰かに管理され、強制されなければ何も身に着けられないという思想に基づいているのが、いわゆる「スクール」ではないでしょ
 
1 いつ
2 どこで
3 何を
4 誰と

これらを全て学校が取り仕切っているわけです。

つまり、国民は政府が決めたカリキュラムを受けなければ学習できず、社会生活が出来ない人間になるからスクールで教育を受けなさいという思想なのです。1人前の人間に子供を育てたければ、幼少のときから子供を囲い込んで管理・強制・競争をさせましょうというのがスクールの方針と言えるでしょう。

しかし、エデュケーションは違います。

エデュケーションは前述の通り、既に内にあるものを引き出し、開花させるというのが真の意味です。つまり、人は本来学習する意欲を持ち、何をいつ、どんな方法で学習するかを知っているという思想なのです。つまり、エデュケーションにおいては学習の主役は1人の人間であり、学校を中心に置いていません。学校はあくまでも、そのエデュケーションのために活用する為の1つの手段に過ぎないのです。そして、私自身もこのエデュケーションに大賛成の人間の1人です。

人は自身の興味関心・情熱に基づいてこそ本当の学習意欲を発揮できますし、やりたい事や成し遂げたい事に関われるからこそ人生は輝くと言えます。

しかし、政府の学校ではどうでもいいような時間割や行事・人間関係などに時間を使わされ、長期間を拘束され続けなければなりません。やりたくも無い事を強制され、無意味な受験競争や管理を受け続けることになっているのが「スクール」なのです。

しかし、人は本来自分の人生に本当に必要だと思う事であれば、誰かに強制されずともしっかり学んでいける力があります。

本が読みたければ文字の勉強をしますし、お金を深く知りたければ数字の勉強をするはずです。歴史を知りたいと思うのであれば、歴史書を誰にも言われずとも読もうとするでしょう。つまり、人間の持つ学ぶ意思を最大限に尊重するのが、このエデュケーションという選択なのです。

何よりも、私がホームエデュケーションをホームスクールと呼ばない理由はここにあります。誰かに管理されて、嫌々ながら無理強いされる「スクール」を、家に移しただけということになるのは本末転倒だからです。あくまでも学習の主役は当事者である子供であり、大人はそれをサポート・補助するというのがエデュケーションだというのが私の考えです。

子供が学びたいことを、学びたいときに、子供が望む方法で学ぶ手助けをするというのがエデュケーションだと考えるのが自然です。

管理されなければ何も人は学べないし、何もしようとしない怠け者に育つから、学校に行くことがただ1つの正解というスクールの考えが私は心底嫌いなのです。だからこそ、スクールとは対極に位置するこのエデュケートは本当に素晴らしい言葉だと私は考えております。

人間の自由意志を最大限尊重し、個人の自主性・主体性を最大限に生かす道が、エデュケートなのです。

 

 

 

植田正治