追求の仲間づくりはコミュニティの文化創造から始まる

社会の期応充足に対する期待が高まるなか、追求仲間を社会的に獲得していく、もしくは外部にも追求コミュニティを形成するしくみづくりが急がれる。

特に外部にも追求コミュニティを形成していく上で重要な教育面に関して先進的な取り組みを行っているのがオランダである。

そもそもオランダは、子供が最も幸せな国とよばれるほど教育課程の選択肢が多く、同時に文化的なコミュニティも多様な国だ(地域にもよるが、オランダの小学校には20ヶ国以上の生徒が在籍している場所もある)。
そのため、日本の教育関係者の中でもオランダの教育はよく取り上げられる。

そんなオランダが近年、力を入れて取り組んできたのが文化教育・芸術教育である。オランダはここ5年ほど小学校のカリキュラムのなかで、文化・芸術分野の時間確保を行っているほか、中学以上、さらには社会人への文化教育も熱心に行っている。

そのため近年では地域の文化理解(文化愛といってもいい)の高まりや、アーティスト活動の活性化が起こっている(この兆候が出てきたのはここ1,2年程度であり、地域や教育という射程にはやはり5~10年というスパンをみなければならないと痛感する。)

こういった文化創造や文化理解がどのような効果をもたらすのか?何がいいのか?と思っただろうか。近年この部分については様々な場で議論が行われながら同時に魔術化が起きてもいる(日本人では平田オリザ、北川フラム、南條史生などの言論が参考になる)。もはや信じるか否かといってもいい。とはいってもオランダなどの事例を見れば明らかなことは多いが、

少し具体的な話をすると、
文化教育・芸術教育というと日本人はどこか、自由に絵を描く時間を増やしたり、どこかに歴史的な建物を見に行くといういうようなことを想像しがちだが、オランダが行っている教育はむしろ現代アートコンテンポラリーアート)教育に近い。これはあらゆるモノを文脈に帰着させる能力のの形成であり、本来的な思考体力の形成である。日本の教育課程にはこういった理解を深める為のディスカッション型の教育はまだまだ普及しておらず、見習いたいものだ。


そもそも、オランダのように思考や理解を探求する訓練を行っていない日本人に歴史に近い芸術教育をしたところで、いまだ敗戦をうまく歴史に位置づけることのできないことをみれば明らかなように、それを現在の私に接続する体力は専門家を除いて国民にはない。というのが筆者の意見だ。

(建築分野では、伝統論争やポストモダンがその部分を負うはずだったが、破綻した。建築家磯崎新の言説がかろうじてその思考を遺すのみである。)

話が散逸したが、コシの部分は記述したつもりである。興味のある方はそれぞれの項目を個別に追求してほしい。

 

 

 


匿名希望

先月まで小学生だった子どもたちを、待ち構えている中学校の罠

新学年が始まって3週間近くになりました。

ついこの間まで小学生だった塾生たちに、中学校で相当多くの人が体験する圧力について、中学三年生になったばかりのお姉さんたちからお話をしてもらいました。

>「まず、中学校という新しい環境に慣れるのが大変ですね。」

>「私の場合、新しい環境に慣れたころに最初のプレッシャーを体験しました。それは定期テストです。」

5教科の合計点で評価される、行ける学校の見通しをたてられてしまう、自分が行きたい学校との成績上の乖離を物差しにしてしまう。ということでした。

>「テストの結果が悪いかったから焦って塾に・・・。」

わたしの塾が近所だったこともあって入塾したのだと想いますが、ちっとも成績は上がりません。そればかりか、わたしは問題集と答えの暗記という、数学で言えば1対1の勉強法をやめましょうと毎回お喋りの形で子どもたちに伝えます。

>「次に訪れたのは、部活動でのいろいろですね。」

子どもたちの世界ではとうの昔に、指揮系統を通じての上からの強制圧力は無効化し、むしろ何かしらの団体活動にとって逆効果になっていますが、これをやり遂げてしまって指導者になってしまった残党が指導教員の中にも、コーチの中にも、サポーターの中にも大勢いますので、悩みが絶えないわけです。

>「順番は人によっていろいろですが、三つ目にやって来たのはクラスでしたね。」

特に理由があるわけでもなく、35人ずつとか40人とか、数合わせ的に詰め込まれた子どもたちは365日そこで最も長く生きていかなくてはなりません。そしてせっかく芽生えた友情や信頼関係も次の年度には再びリセットされてシャッフルされます。


偶然、地方選挙の真っただ中
ある女性候補者の選挙宣伝カーが、大音声で塾の前の通りを走り抜けました。
中学生を見つけたのでしょう。

「勉強も、部活もガンバレよー!!」

たぶんそう言ってご自分の子育てもされて来たのでしょう。
しかし他人の子というか、地域に共有された将来の若者に対して投げかけるメッセージとしては余りにも時代遅れな内容に、中学生たちも塾生たちも投票したくないという表情をしていました。

ところでちっとも成績が上がらなかった女の子なのですが2年後の現在は言うまでもなく優秀生に育っています。

また私の家族からの反応なのですが、中学生で過去を振り返り、体験してきたプレッシャーについて整理して話せることが驚きだということです。

 

 

 

 


佐藤英幸

グライダーではなく、エンジンを持つ飛行機になれ~外山滋比古

外山滋比古は30年以上前から学校教育を痛烈に批判していました。
外山滋比古氏の提言「墜落してもいいから飛行機になれ」リンクから引用させていただきます。
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 バブル前の1988年に発売されて、今なおベストセラーであり続ける驚異の書籍がある。お茶の水女子大学名誉教授の外山滋比古氏による『思考の整理学』(ちくま文庫)だ。(中略)

 外山氏が徹底してこだわるのは、「自分の頭で考える力」の育成だ。

 外山氏は、人間を自力で飛び上がることのできない「グライダー型」と、自力で飛行できるエンジンを備える「飛行機型」に大別する。これまで日本の学校は、教師が手取り足取り生徒に知識を詰め込むばかりで、生徒が自分の頭で考える訓練を疎かにしていた。その結果、他人に引っ張られて飛ぶ「グライダー型」ばかりになり、自分の力で飛べる「飛行機型」は育たなかったと外山氏はいう。

 「僕が本に書いたのは、“墜落してもいいから飛行機になれ”ということです。グライダー型人間はモノマネが得意だけれど、新しい事態や時代の変化に対応できません。しかも現在は30年前よりはるかに時代が進み、学校で学んだ知識がより通用しなくなった。
人工知能(AI)やITなどが発達した今こそ、他人に引っ張ってもらって飛ぶグライダー型人間ではなく、自力で自分のめざす場所まで飛べる飛行機型人間が求められています」

 「自力で飛ぶ」とは、「自分の頭で考える」ことである。意外にも外山氏は、「そのために知識や記憶力は必要ない」と指摘する。

 「日本の教育は知識を詰め込み、忘れないことを求めるけど、それは大間違いです。知識や記憶が豊富だとつい頼ってしまい、自分の頭で考えることが少なくなります。知識や記憶があるがゆえ、それにとらわれてしまい、自分で飛ぶことができなくなるんです」

 自分の頭で考えるため肝心なことは、むしろ「忘れる」ことだと外山氏は語る。
---------------------------(引用終わり)-----

 

 

 

上前二郎

非大卒人材の可能性~企業が求める熱意と勇気~

大学という場所・高校という場所が社会に出る上で不要なことは、もう周知の事実になりつつあり、中卒・高卒の人材に各企業採用担当者が可能性を見出しています。
そんな中、ある企業が所謂「ヤンキー」と呼ばれていた地方の若者の可能性を引き出し、学歴社会の大卒人材に変わり現代社会で闘える人材として非大卒人材の支援を続けています。

今後ますます活発になると思われる非大卒人材の採用。

高校・大学で学校教育を通して暗記脳に侵されることのなかった非大卒人材のポテンシャルとは?

以下、リンク より引用
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>熱意の感染
2017年12月末。東京渋谷区のハッシャダイのオフィス内会場は熱気に包まれていた。10名の生徒達が自分の夢をプレゼンしていたのだ。その話に丁寧に耳を傾けながら、一人ひとりにアツいフィードバックを返すのは、中卒の上場企業経営者として名高い、アドウェイズの岡村社長その人。

遡ること数時間前、人を知るには釣りが一番ということで、岡村社長と生徒達は一緒に海釣りに出ていた。そして、会の最後には岡村社長からの人脈形成の在り方などについて金言さえ与えられたという。

ヤンキーインターンシップに於いてこれは特異な例ではない。他にもDMMの亀山会長など、第一線で活躍する経営者やビジネスマンたちが、毎週生徒達に講演を行っているという。

その翌日生徒達は、都内各地を躍動する。各班ごとにわかれて、フィールドセールスを行うのだ。自分の力でお客様にモノを買っていただくことの難しさや尊さを、まだ慣れない敬語を使いながらも真剣に話して回るのだ。ほんの数週間前までは地元でクサっていた子たちが、である。

ある者はコンビニでたむろし、チームに入って単車を乗り回し、ある者は社会との接点の持ち方を忘れて家に引きこもっていた子だというのに。

彼らに共通しているのは、ただ、変わりたい、自分の人生を自分の手で変えたい。自分で選択できる強さを持ちたい。その想いをポッケに握りしめて、勇気ある一歩を踏み出したことだけ。

>―最後に、今後の目標について聞かせてほしい

藤川さん 久世代表もよく話していますが、目指しているのは、私たちのような会社がいらない社会なんです。

学歴による選択格差がなく、人そのもので評価される社会。実際、ここで育った子達は四年制大学を卒業した新卒より遥かに仕事ができる。主体的に自分で分析して、改善していく力が備わっているから即座に成果を示すこともできます。

小林さん それにインターン生の中にはここにしか居場所がなく、ここでダメなら死んでるという者もいる。

だからガッツがあるし、ハングリーさがある。今までは彼等が活きる環境がなかっただけなんです。私たちはそれを用意している。彼等はここに来るというだけで大きな決断をしているんです。それだけの勇気がある。

近藤さん 大学なんていらないな、なんて話をしたこともあります。就職予備校としての大学なんていらないんです。本当に勉強したい人だけ行けばいい。

選択肢の一つとしてヤンキー大学とかあればいいと思っています。ある沖縄から来たインターン生が、先生からヤンキーインターンを勧められたそうですよ。ここで勉強しなおして、将来の夢へのステップアップをする。第0新卒が夢を掴める社会にしたいと思っています

 

 

 

 

望月宏洋

現代の教育論~学校と宿題は無意味~

リンク
より転載



パッシブからアクティブへ

日本の教育制度はよく、「詰め込み過ぎww」であると揶揄されます。これはもう昔から言われていたことであり、私が子供の頃は
ゆとり教育
が敢行されていました。

※その年代に教育を受けた人たちを「ゆとり世代」と言います

それから国際的に学力が下がったとか何だかんだと言われまして、再び教科書が厚くなったりしました。
でもコレって、ベクトルの方向性が変わったという話ではなくて、「力加減」が変わっただけに過ぎないんですよ。

端的に言えば、土曜日が休みになったかどうかっていうだけの話です。
教育そのもののあり方については、ずっと先生の話を生徒が聴くという、一方向的で受身的(パッシブ)な状態のままでした。
しかし一方で、北欧だとかの教育をみてみると、ベクトルの方向性がそもそも違うんです。
簡単に言えば、日本のような一方向的な教育ではなく、生徒が自ら学んでいく、っていう感じです。
アクティブラーニングの事例はこちら。
で、話を戻すと、先生が
「○○をやっておいてね!」
っていう命令を出すことは、100%受動的であり、能動的に使えるはずだった時間を奪っているのです。
そんなロボット人間を輩出するだけの教育システムの負の遺産こそ「宿題」です。
「宿題」をこなすことに慣れてしまった人間は、今後益々「時代の変化」に対して鈍感になっていきます。


学校に行く意味はない①社会性

それとですね、突き詰めて言えば学校に行く意味ってもうあんまりないと思うんですよね。
それは現代の学校教育が、基本的には
「良い高校→良い大学→良い会社」
という、旧態依然のメインフレームの上に乗っかっているからです。

こう言うと、おそらく多くの人が反論するのではないかと思います。

学校は、社会で生きていくための協調性を学んだり、他人への思いやりを育んだりする側面もあるでしょう!!
って感じで。

でも思うんですが、やりたくもない(=いやいや参加の)運動会で、本当の意味での協調性って学べるのでしょうか?
学べるのは精々、「忍耐力」でしょう。
「忍耐力」も大事だったのかもしれません。昭和の時代は。でもこれからの時代は圧倒的に、「創造力」が大事です。
で、話を戻すと、本当に社会のことを学ぶ上で最善の方法は、実際の社会に出て、「自分が参加したい」行事に主体的に参加することではないでしょうか?
どうして学校と言う「非社会的な」空間で、わざわざ「社会に出るための疑似演習」をしなければならないのでしょうか?
特に中学生や高校生あたりは、もっと学校の外に出て、学校の外で何が起きているのか、知っておく必要があると思います。
そういう意味では、五島高校が最近行っている「バラモンプラン」は非常に良いと思います。
学校に行く意味はない②学力
それともう一つ、学校には大きな役割として、

「読む・書く・話す・聞く」

という、コミュニケーションの基礎スキルに加えて、論理的な思考や表現の方法を学ぶ(いわゆる学力向上)、という側面もあるのだと思います。
それが主要な5教科として認定されているのですが、はっきり言ってコレは学校に行かないほうが効率的に学べます。
受験用のアプリで「スタディサプリ」と言うのがあります。
受験対策だけに特化するならば、教えるのが下手な先生の授業を聞くよりも、このアプリを使ったほうが遥かに身につくはずです。
学校に行くことによるデメリットの一つは、能動的に学ぶべきである生徒が、「先生を選べないこと」です。

世の中には、どんな学校にも「教えるのが下手」な先生がいます。これはもう仕方ないことなのですが、もっと生徒の側にも「先生を選ぶ権利」があって良いと思います。
なぜなら学ぶ主体は生徒なのですから。


まとめ

いかがだったでしょうか。

現代の教育は
1.受身型から能動型へ変化しているため
2.社会性は社会に出て自発的に学んだほうが良く
3.学力アップは生徒が自ら「プロ」を選んだ方が良い

と思います。

そのため、時代の変化に一番マッチした教育のあり方としては、学校に行かずに生徒が参加したい事だけ、学びたいことを主体的に選べることだと思います。

離島でそういう場を少しずつ広げていきたい、と思います。

 

 

 

匿名希望

教育ドキュメンタリー映画『Most Likely to Succeed』~新しい教育:「暗記型」から「探究型」への転換

引き続き、アメリカで製作された『Most Likely to Succeed』(新たな成功への道)という教育ドキュメンタリー映画の紹介記事(リンク)より一致転載
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 …詳しくは映画をご覧いただくとして、その教育の特色を簡単にまとめてみよう。それは、プロシア方式へのアンチテーゼである。対比してみよう。

プロシア方式】    【プロジェクト方式】
 終身雇用の専任講師    一年雇用(外部から毎年応募)
 暗記型          探究型
 教科書あり        教科書なし
 科目別          科目融合
 テストあり        テストなし
 成績表あり        成績表なし
 プロジェクト発表なし   プロジェクト発表あり

  これでは、なんのことやらわからないが、要は、ひたすら座学で教科書を暗記して、テストの成績だけで評価するのがプロシア方式で、その最たるものが、中国の「科挙」の要素をもミックスした日本式の教育システムなのだ。

 それに対して、ハイテックハイスクールや世界中の先進的な学校で採り入れられつつあるのが、プロジェクト学習だ。科目の境界はあいまいになり、個人ではなくチームでプロジェクトを遂行し、先生は「教える」ことをやめる(アドバイスはする)。例えば社会科の産業革命史のプロジェクトでは歯車装置で産業革命のなんたるかをプレゼンする。そうなると歴史だけでなく、物理学や数学やエンジニアリングの知識や技能を習得しないと発表日に間に合わなくなる。生徒は自発的に「探究」の旅を続けることになる。そして学習の評価は、年に一度(あるいは数度)の発表会で行われる。そこには、保護者だけでなく、地域の一般のお客さんが大勢来るのだ。

 実を言えば、これは、活気のある会社、特にベンチャー企業社内ベンチャーで普通に実行されている仕事の形態だ。数名から10名くらいのプロジェクトチームがチームリーダーに統率され、専門家や顧問のアドバイスを受けながら長い時間をかけてプロジェクトを完成させ、顧客に発表して販売する。

 AIとロボットが人間の仕事の半分を代替するようになったら、学生時代から、実社会で必要とされる「ソフトスキル」を身につけていかなければ、生き残ることができない。第四次産業革命では、人間に「創造的」な発想と仕事が求められるのだ。

 これまでも有名大卒のガリ勉君が、会社に入ったとたんに「仕事のできないお荷物」になってしまう例は無数に目撃されてきた。彼ら、彼女らは、これまでは、陰口を叩かれながらもなんとか生き残ってきたが、これからは絶滅するしかない。彼ら、彼女らの一部は、社会に出てからようやく創造的スキルやチームでプロジェクトを遂行するスキルがないことに気づいて、進化することで生き残ってきたのだ。

 そうやって考えてみると、新しい教育は、創造的なソフトスキルを前倒しで身につけるだけのことだとも言える。

(略)

しかし、ハイテックハイスクールの試みは、暫定的にではあるが、成功しつつあるように見える。この学校は抽選制なので、平均的な高校と同じような生徒の構成になっている。親が特に金持ちだったり、親の職業が弁護士や医者や大学教授に偏っているわけでもない。それなのに、卒業生の98%が大学に進学している。アメリカ全土の大学進学率は74%にとどまるというのにだ。

 一つのプロジェクトを深掘りする過程で、生徒たちは、「探究」を続け、多くの知識を身につける。その知識は、意味も分からず丸暗記した知識と違って、プロジェクト遂行の必要性から生まれた、有機的なつながりのある知識、いいかえると「知恵」なので、生徒たちは一生、忘れることがない。暗記型の知識が、テストや受験の後、ほとんど忘れられてしまうという統計があるが、プロジェクトで得た知恵は、血となり肉となる。

 よく、「三角関数の公式なんて社会に出たら役に立たなかった」というような台詞を耳にするが、それは、公式を丸暗記して、知恵にまで昇華しなかったからだと私は思う。プロジェクト学習で三角関数を必要とした生徒は、その後の人生で、何十回、何百回と三角関数の公式を駆使して生きていくことができる。それは、ゲームのプログラムを作成するとき、主人公を回転させるのに必要となるし、建築や設計にも使えるし、自分の子どもに勉強を教えていて、正多角形を描かせるときにも活躍する。

 プロジェクト学習は、知識を有機的なネットワークへと昇華させるための教育の枠組みなのだ。探究がバラバラな知識をつなげる「糊」であるならば、プロジェクトは一人では遂行できない仕事をチームで完成させるという意味で、人間と人間の絆を作り上げるための「糊」なのだ。

 AIで世界が変わりつつある。世界中の大企業が必死の形相でテクノロジーの波に乗り遅れまいとAI開発に鎬を削っている。そして、数年後に社会に出るハイテックハイスクールの生徒たちは、すでにAI社会で生き残り、活躍するための新しい教育を受けている。

 この新しい教育の流れは、やがて、世界中に波及するだろう。初等教育では、考える道具である「言語」の習得があるので、プロジェクト学習とのバランスが必要だが……。いつ、どのようにして、この流れに乗るべきか。答えはシンプルだ。「いますぐ」。お受験という名の100年前の教育システムの残滓に子どもを放り込むか、それとも、世界の趨勢を見極め、AI時代に最適な教育を子どもに授けるか。それが、あなたのお子さんやお孫さんの運命の分かれ目なのだ。

 ======================================================以

 

 

 


斎藤幸雄

就学義務のない国デンマーク

国民を統制する制度が、現実とかけ離れているならば、「自分たちでつくればいい」。
強制ではないが故に、自分たちで良くしていく、という追求が始まる。例えば、学校。
学校すら、自分たちの地域で学びの場をつくる。自主管理するという思考は、世界的にも根底的な潮流なのかもしれません。

デンマークにおける「教育」の在り方(つくりかた、接し方)を紹介します。
リンクより引用。


デンマークに住んだことのある人に話を聞いた。デンマークでは、保護者、住民に「教育は自分たちのもの」という意識が定着している。不登校問題のようなものはないそうである。デンマークの教育制度は、たいへんに柔軟で、いかようにも教育が生まれるようになっている。

親が公立学校に満足できない場合もある。そういう人たちのためには、私学がいろいろとある。自由主義系、各種宗教系、シュタィナー教育、学力系などさまざまある。親たちのさまざまな教育観に応じて、できていったのである。私学には運営費の七五%の補助金が出ている。だから、富裕な家庭でなくても、子どもを私学に通わせることができる。生徒の12%が私学に行っている。

親が自分たちで学校を作ってしまう道もある。
学校を作ること自体はまったく自由である。
学校を作りたい親たちが教育省に相談すると、教育省は「こうすればいいんですよ」というマニュアルをくれて、なにかと面倒を見てくれる。学校を作ることに許可は必要ない。その上、ごく緩い基準を満たしていれば補助金をもらうこともできる。敷地や校舎はなんでもいいし、親が自分たちで先生をやってもかまわない。気にいった学校がなければ、家庭で子どもを育てることもできる。それは法的に保護されている。
ところがおもしろいことに、デンマークでは、家庭で子どもを育てる人の数は、統計の数字にも表れないほど少ない。学校に行かない自由があるからこそ、子どもが来たくなるような学校ができていくのである。高等教育も、大学まで無償である。

デンマークでは、一八世紀前半に、グルントヴィという"国父"とも言うべき人物が現れて、一国の文化に大きな影響を与えた。
グルントヴィは、民衆教育の父とも言われ、「義務教育は怠惰と無関心を生む」「親の教育権を国家に侵されてはいけない」というような主張をした。
グルントヴィの教育思想に呼応して、フリースコーレと呼ぼれる暗記や訓練によらない自由な学校を作る運動が起こり、現在にいたるまで一世紀半の歴史を持っている。このフリースコーレの運動が、公立学校にも大きな影響を与えている。
現在でも、デンマークの教育では、競争をさせず、点数評価に重きを置かない教育哲学が広まっている。12歳までは、点数の試験を課してはいけないという法律すらある。ところが、国際的な学力調査をやると、デンマークは先進国の平均的なレベルにあるし、成人の学力となるとさらに高い。

世界中を旅し、人々と暮らしぶりを見てきた友人が言っていた。
「おそらく、デンマークは世界でも一番暮らしやすい国じゃないですか」
それは、教育のためだと思う。子どもたちを、自分自身と社会を信頼し、知恵を出し合って生きていけるように育てているのだと思う。なお、国ではなく親に教育権があるというのは、欧米諸国では常識である。だから、公立学校の教育に問題があっても、親がなんとか別の教育を手配できるのである。

 

 

 

 

小林健