大学崩壊? 授業料高騰と人文系学問の消滅…すでにアメリカが迎えている危機とは

 アメリカの四年制私立大学の平均年間授業料は約340万円以上で、これは日本の約4倍。学生ローンは年々増加し、ついに総額が100兆円を超えた。

リンクより引用します。

※※※以下、引用※※※

 日本では大学の授業料の高騰はまだ未来の心配かもしれないが、アメリカではすでに起こっている現実問題だ。アメリカの大学の授業料は数十年かけて上がり続け、四年制私立大学の平均年間授業料は3万ドル(約340万円)以上にもなってしまった。これは日本の四年制私立の約4倍にもなる。ハーバードなどの有名私立では、年間600万円近くになるところもある。日本の国立や公立大学にあたる州立大学でも有名大学は授業料が高い傾向にある。例えば、カリフォルニア大学バークレー校の州外学生の年間授業料は400万円以上だ。

 授業料の値上げはさらなる問題を引き起こしている。一番深刻なのは「教育の市場化」である。大学は学生を高額の支払いをしてくれる「お客様」と扱いだし、彼らを満足させることに必死になっている。例えば良い成績の大判振る舞いである。アメリカの成績はA、B、C、D、F(Fは不合格)と上から五段階だが、四年制の大学では半分近くの成績がAであり、授業料の高い大学ほど成績インフレはひどい。

 学生募集のために大学は教育とまったく関係のないアメニティーの強化を競い合うようにもなった。1980年以降に生まれたミレニアルズと呼ばれる若い世代は物質的な豊かさに慣れているので、設備の豪華さや快適さを大学選びの基準にしがちだからである。流れるプールつきのスポーツセンターを何十億円もかけて建てる大学もあるし、スキーリゾートが大学内にあるところもある。大学の寮や食堂というと質素なイメージだろうが、アメリカの大学では高級ホテルのようなところが多い。コンシェルジュを備える大学もある。

 大学スポーツ観戦が人気のアメリカでは、スポーツの強豪大学であるというのも大学選びの決め手になる。そのため大学はスポーツの強化にも莫大な資金をつぎ込むようにもなった。このような試みは授業料のさらなる値上げにつながり、結果的に学生にしわ寄せがいく。アメリカの学生ローンは年々増え続けていてついに100兆円を超えてしまった。70パーセント以上の大学生が負債を抱えて卒業するというのが現実である。

 日本でも取り上げられる人文系学問の消滅の危機も、アメリカの大学ではもうすでに深刻化している。これも授業料高騰の弊害のひとつといっていいだろう。卒業後のローンの支払いのために、学生は幅広い教養をつけることより、就職に直結する知識やスキルを学ぶことを要求する。近年ではアメリカの大学の専攻の半分以上が特定の職業につくための実用的な分野で、卒業後の職業が明確にできない伝統的なリベラルアーツの専攻をする学生は年々減っている。

 この他にも入試の点数だけでなく人物の全体像を審査するホリスティック入試の不公正さ、非常勤講師の多量採用など色々な問題が山積みとなっている。学生を惹きつける「売り」のない大学は、新入生が定員に満たず閉校するというケースも増えている。

 日本の大学でも少子化が進むにつれ授業料の値上げや学生争奪戦、それにともなう学生消費者主義の深刻化は避けられないだろう。日本の大学が近い将来直面するであろう「危機」は、日本の大学がモデルとしてきたアメリカの大学の現状を見るとよくわかるのではないか。しかしアメリカの大学の抱えている問題のほとんどが解決の糸口さえ見えていない。日本の大学は何をお手本として高等教育の危機を回避したらいいのだろうか。 

※※※引用、以上※※※

 

 

 


野崎章 

少子高齢化の日本。教育が進むべき道【前編】AIの進化を見据えた教育を

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教育を国際レベルへ
編集部:まずお聞きしたいのは、日本の小中高等学校の教育についてです。
2020年から文部科学省が定めた新たな学習指導要領が順次施行されますが、この指導要領には国際的な教育プログラム「国際バカロレア」の要素が組み込まれていると言われます。IBは、世界的には有名なプログラムですが、日本人にはあまり馴染みのないものです。ですから、そもそも、なぜIB的な教育が必要なのかと不思議にも感じます。これは本当に必要な変化なのでしょうか。


後藤氏(以下、敬称略):必要だと断言できますね。

編集部:理由はどの辺りにあるのでしょうか。

後藤:最大の理由は、AI(人工知能)の進化です。この進化によって、決められた一つの答えを、決められたルールの下で出す能力は、あまり重要ではなくなっています。そのようなことは、AIにやらせた方が圧倒的に速く、正確だからです。ところが、これまでの日本の教育は、ともすれば試験ための学びとなり、特に正しい一つの答えを出す処理の能力を高めることに力点を置かれがちでした。こうした正解が唯一に決まる問題ばかりを解いてきたため、正解主義に陥りやすくなります。あらかじめ唯一の正解があることが想定されていることなど社会や生活の中ではありません。正解を求めていても本当の解決には向かないのです。そのようなことを続けていては、これからの時代で活躍できるような人材は育てられません。

編集部:なるほど、AIの進化が、IBの必要性につながっていると。

後藤:そうです。また今日では、少子高齢化、環境問題、不安定な国際情勢など、社会的な課題が山のように積まれています。これらの社会課題は、解決のための“正解”が一つではなく、いくつも選択肢があります。そんな時代を生き抜いていくには、あらかじめ決められた正解を出す力ではなく、答えのない中で最善の答えを導き出す能力がどうしても必要です。その力を身に付けるための教育プログラムの一つがIBというわけです。

編集部:唯一の正解のない中で最善解を導き出す力を、IBはどのように育むのですか。

後藤:IBは「世界最高水準の教育」を目指して設計されたプログラムで、学習者の主体的で本質をつかみ取る思考力を磨くことに重きを置いています。その目的の下、教える側ではなく、学ぶ側に教育の中心軸を置き、学習者が主体的に、そしてクリティカルに学ぶことを基本にしています。そうした主体的で能動的な学びが、未知の問題に挑み、唯一の正解のない中で最善解を見つけるという、これからの時代に適した能力を育んでいくわけです。

編集部:IBが生まれたのは50年前。その当時はAIはなかったと思いますが、それでもIBが世界的な教育プログラムへと普及・発展した理由はどこにあるのでしょうか。

後藤:一つは、IBが世界平和の構築を究極のゴールとしているからです。これは、ヨーロッパにおける2度の大戦の苦い経験から生まれたものですが、世界平和の構築には、人種や言語、宗教が異なる相手が異なる考えを持っていることを認める、つまり違いを違いとして認めることが大切なのです。それを理念として掲げてきたからこそ、IBが各国からの支持を集めたと言えます。

生きていく意味を見つける
編集部:能動的な学びが必要とされるということは、これまでの日本の教育が受け身の学びだったということですね。

後藤:おっしゃるとおりです。これまでの日本の教育は、まさに受け身の学びで、言われたことを黙々と着実に処理できる人を育てる教育でした。かつての高度経済成長期には、それでよかったと言えますが、AI時代のこれからは、言われたことを黙々と処理するだけの人材の価値はどんどん下がっていきます。いまや工場でロボットが活躍する時代です。また、受け身の教育を受けてきたマニュアル人間や指示待ち族な人たちは、AI社会の中で働き場を失うおそれもあります。


後藤:AIやロボットが人の代わりに働くようになれば、働き場のない人に「ベーシックインカム」が支給されるようになる可能性があります。そうなったら、多くの人が働かなくなりますよね。そのとき、やりがいや生きがいを自分で見出せないと、生きる意味を見失いかねません。つまり、これからのAIの時代は、人が生きる意味を問われる時代なのです。ですから、主体的に学ぶ力や、やりがいや生きがいを見つる力を養うことが大切なわけです。

編集部:今日のAIにできないことの一つとして、自身では課題が見つけられないという点がよく指摘されます。IB的アプローチを採用する効果は、AIができないこと──つまりは、自ら課題を見出す能力を育むこととも言えそうですね。

後藤:そうです。以前から、問題発見・解決能力の重要性は指摘されてきましたが、かつての手法は、仮説を立てて、問題を切り分け、解決するというアプローチでした。これはプログラミングにおける「バグ取り」的なアプローチでした。しかし、今、必要とされている問題発見・解決能力は異なります。

編集部:どの辺りが異なるのでしょうか。

後藤:異なる考えや意見を調整して納得解を見いだすことが求められている点です。そのときに「批判的思考力」が必要とされます。要するに、あらゆる角度から物事を多面的にとらえて本質を見いだすために検証的にとらえることです。批判的な思考では、痩せたのではなく「ベルトが伸びたのかもしれない」と考え、検証するわけです。さらには、知識そのものさえも批判的に捉えて検証することが必要なのです。そのことでお互いの考えの違いを違いと認め合えるようになり、それぞれの異なった常識をすり合わせて納得解を見いだせるのです。


後藤:そのためには思考の訓練が必要です。日本の教育はこれまで、明示的に思考力を磨く訓練をしてきませんでした。実際、ダボス会議に出席した私の知り合いは、日本人が会議で精彩を欠くのは英語力ではなく思考力の問題だと言っています。その問題を解決するためにも、未知の問題に挑み、違いを違いと認めて違いを理解したり知識さえも批判的に捉えて考えたりするIB的なアプローチを、教育に取り入れることが大切なのです。

 

 

 

 

大川剛史

なぜ学校は「体罰する教師」をかばうのか

体罰は学校教育法で禁止されている。それにも関わらず、体罰をめぐる問題は後を絶たない。民間シンクタンクから熊本市教育長となった遠藤洋路氏は「体罰は“昭和の学校”の弊害だ。学校現場には『許してもらえたら体罰ではない』という甘い姿勢がある。教員には体罰に頼らない指導力とプライドを持ってほしい」と指摘する――。

文科省から民間へ、そして教育長に

2010年に文部科学省を退職後、友人と政策シンクタンク「青山社中」を立ち上げ、議員や政党向けの政策づくりを仕事としていた。会社も7年目となった昨年始め、旧知である大西一史熊本市長から教育長就任の打診をいただいた。震災で傷付いた熊本の姿に心を痛めていただけに、私の経験が少しでも役に立つなら、との想いでお受けした。

 
※写真はイメージです(写真=iStock.com/maroke)

熊本での教育の仕事は、これで3度目となる。最初は、文科省時代の熊本県教育委員会への出向。次に、青山社中時代に携わった熊本市の教育大綱(市長が定める教育の基本方針)策定のアドバイザー。そして今回である。ただ、今回はこれまでとは違い、期間限定でも非常勤でもなく、熊本に骨を埋める覚悟で来ている。

「昭和の学校」の功罪

私がこれまでの経験から培った熊本の学校に対する印象は、一言で言えば「昭和」である。良くも悪くも、古い。学校環境、生徒指導、部活動、教員の意識など、「昭和の学校」のままなのだ。

多くの教員は真面目で熱心で、昭和の熱血教師を彷彿させる。学校生活は全体として規律正しく、目立って荒れている学校は少ない。九州大会や全国大会で好成績を挙げている部活動も多い。

こうした「昭和の学校」は、その弊害も大きい。厳しい校則、部活動の過熱、教員の多忙といった全国的に指摘される問題に加えて、高校受験の過熱が著しいと感じる。この中学で何番までなら○○高、何番までなら□□高、といったように、偏差値で輪切りをする受験指導がまかり通っている。

その結果、熊本の学校は、他県からの転入者から厳しい評価を受けることが多い。保護者へのアンケートでも、教育委員会や学校への苦情でも、転入者から「いまだにこんなことが行われているのかと驚いた」という声をよく聞く。いつの間にか時代から取り残されているのだ。

リンクより

 

 

 

森浩平 

 

全国325万人の中学生の10人に1人が学校に通いたくないと感じている。そんな生徒におススメ・「学びあい」で嫌いな勉強を楽しく。

今の小中学校の勉強は人の能力、可能性を潰しているだけではないか、という疑問が拭えません。

文科省不登校の定義を「病気や経済的理由以外で、年に30日以上欠席する生徒」を定義している。2017年度の公表数は10万9千人に上っている。

一方、日本財団は、通学しているが学校に通いたくないと感じたことのある中学生が約33万人に上るという推計結果を、この12/13日に発表しました(日経新聞18年12/14朝刊)。
この数字は全国の中学生約325万人の10人に1人の割合になる。
調査に協力したNPO法人全国不登校新聞の石井志昴編集長は「公表数は氷山の一角。学校生活に困難さを抱えている生徒はたくさんいる。そういう段階での支援が大事だ」と話している。

学校に行きたくない理由は「小学校のときと比べ、良い成績が取れない」「テストを受けたくない」などの回答が多く、他には「友達とうまくいかない」「学校に行く意味が分からない」というもの。
この結果は今の子どもたちが、如何に学校教育に馴染めず、かといってこの強制的な制度から抜け出すすべも分からず、結局引きこもりや不登校になるしか選択枝が無いという実体を示しています。

ではどうしたら良いのでしょう。
その有力な解決方法が以下のサイトに示されています。
「学校に行く意味って?」リンク
勉強が楽しくなる「学びあい」
リンク

 

 

 

荘家為蔵

知的障害を人為的に作る「知性なき丸暗記」

****以下、鐘の声 ブログより リンク

サヴァン症候群のヒトはすばらしい。

山下清画伯」の絵画に感動しないヒトは少ない。「山下清画伯」がサヴァン症候群だったという証明はまだないが、おそらく類似だろうと思う。しかし、全ての子供たちに画才があるかといえばそうではあるまい。そのような普通の子供たちに人為的知識障害を引き起こして知能を引き下げても、画才が開花することはあるまい。

 単純反復動作、反射的行動を教えるだけの教育を知育教育というならば、仮性の知識障害者を無理やり作る教育ということになる。トンデモ教育である。スキル教育でさえも「やってみせ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ」(伝 山本五十六)なのだから、「言って聞かせ」る必要もあるのであると私は思う。

 知識獲得や推論も脳の働きなので、その訓練をシミュレーションで行うことも当然できる。クイズはアナログのシミュレーション課題である。学問をクイズのように教えるというのも一案である。これを「知能教育」というならば、「知能教育」である。アナログシミュレーションであれ、デジタルシミュレーションであれ、知識獲得や推論も訓練はできるという意味ではスキル教育である。呼び名はこだわらない。「スキル教育」でも「知能教育」でも良いに違いない。

ただし、世に言うスキル教育と知能教育の違いは主として「小脳」を鍛えているのか主として「大脳」を鍛えているのかの違いである。「小脳」も鍛えなければならないが、「大脳」も大いに鍛えなければ社会人になれない。大脳を大きく発達させてサルはヒトになったのである。大脳を鍛えずしてヒトであろうか。私は講義中によく「君たちは脳みそに汗を掻きなさい。スポーツは体中に汗をかいて体を鍛えるが、学問は脳みそに汗をかくんだ」と話す。大脳に汗を掻くくらいの熱中が起こらないと賢くはならないのである。

知能を育てる」とは、小脳とともに大脳を鍛えることである。 大脳を鍛えるデジタルシミュレーションは、1980年代に私はその世界の製造の先頭にいたが、普及はしなかった。tool群が脆弱で工数がかかることが製造上の問題だったが、教育界は当時から「丸暗記支援」だけを期待していて「知能教育」には関心が薄かったようである。

その後は、私のチーム以外からも散発的に様々な試行がされたが、大きく成功したものはない。存在しないとはいわないが、デジタルシミュレーションまだほんの少ししか存在しない。機会があれば、またデジタルシミュレーションのとびきり優秀なものを世に送り出したいという思いもないわけではない。機会が来るまでは、待つしかない。

 

 

 

匿名希望

驚きと感動の種まきで、子どもの興味を開発する

リンクより引用します。

※※※以下、引用※※※

『強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話』(徳間書店)をご存じだろうか? 家庭教育に心血を注いだ、ある強烈なオヤジのストーリーだが、今回インタビューしたお相手は、その3兄弟の長男、宝槻泰伸氏。彼が経営する探究学舎(東京都三鷹市)では、子どもの知的好奇心に火をつけることで、「もっと勉強したい」という子どもたちが続出だとか。前回に引き続き、「うちの子、勉強嫌いで、やる気がなくて困る」と嘆く多くの親御さんに代わって、なんでそんなことが起きるのかを取材した内容をお伝えする。

興味開発で、未来の「さかなクン」を育てる

――教育改革のキーワードとしても「探究」が注目されています。宝槻さんが考える「探究」とは?

宝槻 「能力開発」と「興味開発」という言葉があります。ほとんどの学校教育で行われているのは、「能力開発」です。しかも、そこで行われる勉強は、自分がやりたいことや、やりきった先にどんな未来が花開くかとは無関係に、「社会一般で必要な諸能力が開発されるから」、あるいは「受け取っておかないと大変なことになるからやっておけ」と言われて、押し付けられるものです。つまり、世間体という物差しで測られる、より良いポジションにつくために必要な、勉強という名の「適合」の訓練です。

 また、社会で生きていくために必要な能力の中心点も時代によってずれるので、子どもに身につけさせたい能力も、読み書きそろばん、情報処理能力、情報編集能力、英語4技能、課題発見・問題解決能力とその時々で変わっていきます。

(中略)

 受験勉強も就職活動も給与体系も、すべてが近代に確立された一貫した人生カリキュラムのようなものですが、近い未来にそれらがすべてなくなると思います。ライスワーク(飯を食うために働く)からライフワーク(自分らしさを発揮する仕事)へのシフトです。しかし、40~50代の親の価値観はまだシフトしていないと感じます。組織人であればあるほどそうですね。しかも、その年代が今の社会の中枢を占めていますから、なかなか教育も変わらないのです。これまでの偏差値によるシステムは完成されていて安心できるので、そこにしがみつきたいのでしょう。

(中略)

ライスワークからライフワークへ社会がシフトしたときに必要な力とは?

――おっしゃる通りですね。でも今は過渡期。そのなかで、どうしたら「さかなクン」になれるでしょう?

宝槻 その道筋はまだブラックボックスです。どうしたら英会話ができるようになるのか。どうしたら東大に入れるかという道筋はわかっています。世の中はライスワークの準備で溢れています。

(中略)

 ひとつ言えるのは、30代後半以下の親の価値観が変わってきたことです。ちょうど小学生の親の世代です。僕が腹落ちしている価値観とシンクロしてきました。「勉強より、自分の好きなことをしてほしい」という親が多くなってきたと感じています。そういうことを自信を持って言い切る親は、少なくとも7年前に塾を始めた時にはいなかったですから。親の「好きなことをしてほしい」の中身が何をイメージしているかはわかりませんが、子どもにとっては、医療も、スポーツも芸術文化活動も昆虫も料理も、すべての分野がフラットに広がっていて、社会的ポジションなど関係ありません。そのなかから自分が熱くなれるものを見つけ出し、深く追求していきながら、必要なスキルを磨き、社会と接続して価値に変えていく。これからは、そういう工夫が必要でしょう。

(中略)

驚きと感動の種まきで、子どもの興味を開発する

――なるほど。自分の好きなことを極めていく先に未来があるとしたら、好奇心が大切ですね。しかし、自分が何を好きか、何がしたいかわからないという子どもは多いのでは?

宝槻 めちゃそう思います。自分が大学生の時から、「したいことがない」と言う人は多かったですから。でもその歳から好きなことを見つけていくことは、ものすごいパワーがいります。だから、子どものときの働きかけが大事なんです。

 僕の考えとしては、幼いときから感動の種まきをして、10歳から13歳くらいまでに土台をつくり、18歳くらいまではマイ探究の時期。自分の好きなことに没頭する時間に6割くらいを割き、残りの4割は種まきを続けるというものです。探究を繰り返すうちに自分の中に柱はできて、そこから何かにつながっていくはずです。教育者は、そのログをとっていくことで、個人の資質を見極め、個性を発見・創造するカルテをつくることができるかもしれません。

(後略)

※※※引用、以上※※※

 

 

 

野崎章

宿題はタブレットで配布、スマホで提出 ブラジル郊外の公立高校

 技術力や教育方針が、時代によって変化している中で頑固たる過去の方針や手法にばかりとらわれ、こうであるべきだと根拠のない主張をし続け効率化を図らないのは何事に関しても可能性を封じている。
ブラジルの学校では、新技術を導入し新たな教育体制が組まれつつある。


以下引用


 高校1年生の化学の授業の終了間際、先生が「宿題を配りますよー!」と言って教室内を歩き回っている。よく見ると、先生のタブレットから生徒のスマホに宿題を配信している。

 ここは最先端の設備が整った先進的な高校ではない。ブラジル・サンパウロ市郊外の辺鄙な場所にある公立高校で、校内のインターネット環境は整備されていない。先生は、タブレットBluetooth機能を使って各生徒のスマホに宿題を送付しているのだ。スマホを持っていない生徒もいる。それでも友達のスマホを見ながら宿題をやるので支障はないという。

 先生は、「生徒のスマホを使って宿題の配布・回収をするようになってから、授業時間が効率化され、かつ生徒のモチベーションも大幅に上がりました。教育の質を上げるために使えるテクノロジーはどんどん使わなきゃですよね!」と語る。

新しいことを始められない理由を探してしまう日本

日本の教育はどのくらいテクノロジーを活用しているのだろうか?

 「全教室のインターネット環境が整っていないとITツールを導入できない」「生徒はスマホを学校に持ってきてはいけない」「勉強は紙と鉛筆でするものだ」

 新しいことを始められない理由をたくさん見つけて尻込みしてきたのが日本だ。その間に世界の国々は出来ることからどんどん進めている。インターネットがなくてもBluetoothを使う。生徒一人一台のタブレットがなくても、生徒が持っているスマホを使う。日本の教育がテクノロジーを取り入れる頃には、世界の国々に追いつきようのないほどの差が出ているかもしれない。

 ブラジルでは、ここ数年でオンラインでの模擬試験も普及し始めた。学校で模擬試験の時間になると、生徒はパソコンルームに行き、一斉にパソコンで模擬試験を受ける。試験終了と同時に詳細結果が出て、各生徒の入試での予測得点や弱点に応じたおすすめの教材が提案される。先生も模試の分析結果を見て、各生徒のつまずいている箇所を把握し、翌日の授業に活用する。

 日本では、模試を受けて、解いた問題も忘れた頃に、ようやく紙での結果が送られてくるのが一般的だというのに。

ただ、そんなブラジルの教育が進んでいるのかというと、データを見る限りは決してそんなことはない。



以上

 

 

 

匿名希望