現代に潜む「奴隷制度」=「学校制度」3/3

■第4章【学校で起きている笑笑な現状】
今まさに、学校では、物凄く滑稽な情景が広がっています。「スマートフォンをポケットに入れた高校生が、教壇にたつ先生の授業を受ける」生徒たちのほとんどは、自分達のポケットにあらゆる情報が得られる魔法の板が入っているのに気づいていません。先生たちの多くも、インターネット上に溢れる教材よりも、自分の授業を聞くことを生徒に無理強いしてしまっています。

インターネットや書籍で、勉強出来る時代に、先生が果たす役割は、「知識を伝える事」ではなく、「どうやって勉強を進めるのか」を教える事です。迷える登山者に、安全な道を教えてくれる案内板、それが先生です。だから、わざわざ授業する必要はありません。多くの先生方が複数のクラスで同じ授業を行っています。テクノロジーを使えば、わざわざ同じことしなくてもいいのに、、、。

※これを言うと、映像授業とか人間味が感じられないとか言う人がいます。僕は、過ごす必要のないことに時間を費やすよりも、もっと充実した時間の過ごし方をした方が人間味があっていいと思います。年老いたおばあちゃんが洗濯板で洗わないと人間味が無くて嫌!なんて言う人いないでしょう?それでも尚おばあちゃんに洗濯をさせるようなら、おばあちゃんの時間を奪っていることになります。そんな人間味の無いことはしたくないです。

■第5章【奴隷制度的学校制度】
ここまで読んだ皆さんは、きっと学校制度が、時代に取り残されてしまっていることに、気づいています。奴隷制度=学校制度という意味もうすうす理解出来るのではないでしょうか?

詳しく説明していきます。まず、奴隷制度について確認です。奴隷とは、人間としての名誉、権利、自由を認められず、他人の所有物として扱われる人のことを指します。

奴隷は、主人の命令に従わなければなりません。
自分のやりたい事に取り組む時間はありません。
命令された役務をこなさなければなりません。

「自分の好きな事がしたい。自由が欲しい。」こう願っていることでしょう。では、学校に通う高校生を見てみましょう。

生徒は、学校の言うことを聞かねばなりません。
自分のやりたい事に取り組む時間はありません。
指定された科目を勉強せねばなりません。

「大学に行って好きな事がしたい。自由が欲しい。」こう願っていることでしょう。半ば冗談混じりに表現しましたが、あながち間違っていないかと。勉強は、役務じゃない!将来の為にやってるんだ!というならば、それは少し見当違いかと。奴隷だって、役務をこなす中で、体力増強や技術を身につけていることでしょう。将来役に立つか立たないかとかではなく、その時間を、満足して過ごしているか。これが問題なのです。

多くの人々は、奴隷制度は断固として反対だ!というスタンスです。可哀想だと思うでしょう。「一生奴隷になれ」なんて言われたら、たまったもんじゃありません。しかし、(奴隷的に生きる)学生たちには酷く無慈悲です。「もっと頑張れ。我慢しろ。」と強います。

何度も言いますが、学校に行く「必要」はありません。※行っては行けないとは言ってない1人1人やりたい事も興味も、得意な事も違う。けれども、一律に主要五教科(国数英理社)に取り組まされる。朝早く起きて学校に行く必要もありません。若者はホルモンバランスの影響で、夜型の人が多いそうです。

・決められた時間に
・決められた先生から
・決められた科目を
・決められた進度で
学んでいく、必要はありません。

「好きな時間」に
「好きな分野」を
「色んな方法」で
習得し、成長していくべきです。

僕自身、「将来なんの役に立つか分からないし」などと嘆きながら、疑いもせずに嫌な課題に取り組んできました。学んだことが有用かどうかはおいておいて、そうやって「やりたくないこと」を他人にやらされているそう感じる時間があるなら、もはや、奴隷です。

■第6章【奴隷制度よりヤバい学校制度】
もちろん、挑戦に失敗や苦悩は付き物です。学ぶことは基本的に辛いことです。難しいことに悩み、長く継続しないと結果は目に見えない。決して、失敗や苦悩から逃れる方法があるとは言ってません。ただ、全員が全員、一律の科目を勉強させられるそういった制度がおかしいのではないかということです。

スポーツだって野球、サッカー、テニス、柔道、ラグビー、色んな競技があります。みんなが、ラグビーに打ち込まなくてはならないなんてことはない。各々が望むスポーツをやれば良いのです。同様に、みんながみんな、物理を勉強しなければならないとか、古典を勉強しなければならないとか、おかしいですよね。今の学校制度はそういうことを平気でしています。多くの大人たちも、この時代の変化に気づかず、子供たちに有名大学に進むことを望みます。子供たちの為だと思い込んで、子供たちの時間を奪ってしまっているのです。

1日の大半を学校で過ごし、帰ってからも課題をやる。「めんどくせぇ」とボヤきながらも学校に行き、「将来ぜってぇ使わねぇし」と言いながらも仕方なく課題に取り組む。自分の時間を過ごしている状態とは、程遠いです。他人の人生を生きていしまっています。その時点で、奴隷と一緒です。「そんな事ないだろ」「学生は勉強させてもらってるんだ。むしろ恵まれている」と言う方もいると思います。実際に、僕自身そうやって自分に言い聞かせながら、授業にのぞみ、大学受験の勉強をしていました。

しかし、そこが1番厄介な点です。この点で、奴隷より悲惨な状態です。「自分が奴隷だと認識出来ていない奴隷」なのです。めんどい、だるい、嫌だ、も思いながら学校生活を送ることは、決して(現代において)恵まれた状態とは言えません。しかし、遠い過去と比較して「自分たちは恵まれている!」と思い込み、思考停止するのです。

あまりにも多くの人が、学校に行くことは当たり前だ、という幻想を信じ続けているのです。覚えておいて欲しいことがあります。自分に優しくしてくれる人と、自分にとって有益な人は必ずしも同一人物ではない。学校に毎日行かなくてもいいんです。学校がめんどくさい、そんなことで悩む時間は勿体ない!すぐに実践に移しましょう。つまり、学校から解放されるのです。

 

姜ヨセフ

 

 
 

今、学校に求められる機能とは?

リンク より引用

社会では、「コミュニケーション」と「経済活動」を行うための2つのスキルが必要です。学校はこうしたスキルをしっかりと身に付けさせていきたいものです。特にコミュニケーション能力は、障害や発達の特性の状況に応じて、自分なりの方法を身に付けていくことが求められます。

 

学校の機能を単純化してみると、二つのポイントが考えられます。教師の立場から考えれば、①何を教えて(カリキュラム)、②どう教えるか(教え方)であり、生徒の立場から考えれば、①何を学んで(カリキュラム)、②どう学ぶか(学び方)です。

 

このことについて考えるには、歴史をさかのぼってみるのが分かりやすいと思います。今の学校の原型は明治維新以降に作られましたが、それよりもさらに前、江戸時代にまで戻って、教育を考えてみましょう。

 

江戸時代の寺子屋のカリキュラムと学ぶ方法は、とても理にかなった教育であったと私は思います。「①カリキュラム」については、「読み」「書き」「そろばん」が中心で、まさに実社会においてコミュニケーションや経済活動に結び付いた知識・技能でした。武士の子はもちろん、商人や職人、農民の子に至るまで、多くの寺子(子どもたち)が「読み」「書き」「そろばん」を学び、今よりもはるかに若い年齢で社会に出て、家計を助けていました。

 

「②教え方・学び方」については「自学と学び合い」が中心です。教師が現在のように大勢の生徒に一斉授業で教えることはありません。分からないことがあれば友だちに聞いたり、教えたり教えられたりしながら主体的に学んでいました。

 

実はこれは、世の中の営みそのものです。つまり、社会に出てからの大人の学び方と、子どもたちの学び方は同じだったのです。今のように一斉授業の中で一方的に情報を受け続け、ただ丸暗記するような勉強方法ではありません。また、「これをやりなさい」「あれを勉強しなさい」と一方的に押し付けられることもありませんでした。学びは、人に頼るものではなく、自分で分からなければ調べたり考えたり、それでも分からなければ聞くなどしました。当時は、「対話」が当たり前だったのです。まさに「学びのスタイル」が「社会でのスタイル」なのです。

 

私たち大人は仕事をしていく過程で、日々多くのことを学んでいます。学校においても同じです。教師同士も学び合っています。その学びの多くは、日々のちょっとした会話を通じて、経験が豊かな先生から新任教師へ「こうしたらいいよ」という方法を伝えるコミュニケーションを介して行われています。研修などを除けば、私たちが職場で必要なスキルを、講師による一斉講義形式で座学で学ぶということはありません。これは民間企業においても同様でしょう。

学校教育は「アクティブ・ラーニング」に変えるべき
新学習指導要領では、「アクティブ・ラーニング」(主体的・対話的で深い学び)が求められています。私は、学びは、そもそも「アクティブ・ラーニング」に変えていくべきだと考えています。それは、人が社会で生きていくスタイルそのものが「アクティブ・ラーニング」だからです。

 

そもそも、「一方的な講義スタイルで、じっと座って、誰かの話を聞く」ということが世の中において当たり前ではありません。対話し、発信し、受け取り、合意形成を行う。そうした形で物事を解決していく。これが社会の姿なのですから、学校においても、社会の「当たり前」を学べるようにすべきだと考えています。

 

カリキュラムについても、かつての藩校は地方分権で自律しており、江戸幕府にコントロールされてはいませんでした。各藩が自らの経済活動に必要だと考えれば、各地から優れた人を招いてきて講義を行ってもらうなど、独創的で自律した学びを行っていました。問題解決能力を日々の活動の中で高めていたのです。これが明治維新以降、優れたリーダーを輩出した一つの理由であったとも思います。

 

寺子屋は私設の教育機関でしたが、就学率は非常に高く、江戸などはもちろんのこと、地方の小都市や農村部でも、多くの子どもが通っていたようです。それは、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という目的に対し、寺子屋が適切な手段だったからだと思います。

 

江戸末期、日本の識字率は非常に高かったとも言われています。それは、寺子屋で培われた知識・技能が日本の隅々まで浸透していたからだと思います。そうした基盤があったからこそ、明治期の奇跡的な産業的発展ができたのでしょう。

 

ところが、明治維新以後、日本は西洋の学校教育制度をモデルとして、まったく新しい公教育制度が整備されました。そこでは、教員による一斉講義形式の授業が行われ、カリキュラムも教科型へと転換しました。その結果、実社会の営みと離れてしまい、学校へ通う子どもたちの生活実態や、学ぶ内容と意義を家族が認められないことなどがあり、しばらくの間、就学率が長く低迷することになったと聞きます。子どもたちが学校へ行かなかったのは、明治期の学校が「社会の中でよりよく生きていける」ための手段として、適切でないと感じたからだと思われます。

 

近年、不登校の子どもたちの数は増加傾向にあり、そのありようも複雑化しています。もしかすると、明治期と同じく、学校に行く意義を見い出せなくなっている子どもがいることの表れかもしれません。

 

 
田中拓帆

学校に通うということにこだわらなくていい

以下(リンク)引用
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●いまこそ江戸時代の寺子屋に学べ
日本人は、先進国の中でも金融(お金の貸し借り)に対するリテラシー(理解力)が低いと言われている。金融学の専門家がSNSなどで発信しているけれど、有効活用できている人はごくわずかだろう。大卒でも、多くの人が直接金融と間接金融の仕組みを理解できていないし、投資と投機の違いすらよくわかっていないと思う。

歴史をひもとくと、意外な事実がわかる。江戸時代まで、日本人は世界有数の金融リテラシーを誇っていた。そのため貨幣経済にいち早く移行でき、計算の複雑な年貢システムにも対応できた。町民同士での商取引に、会計の基礎を採り入れた。利息の複利計算など、庶民が数学の理解力に長けていた。そんな能力を養っていたのは、寺子屋教育だ。
江戸時代の末になると、全国で1万5000以上もの寺子屋が運営されていたという。この寺子屋が日本人の高い識字率を支え、数学や語学など、多分野の理解力を養った。寺子屋を経て、明治以降に洋学者や科学者など幅広い分野で活躍した人は少なくない。

寺子屋の特徴は、いまの学校とは大きく違い、基本的に個別教育だったことだ。師匠と呼ばれる先生が、寺子屋に学びにやって来た子どもたち、1人ひとりの目標や希望を聞きとり、それに合ったカリキュラムを提供していたという。つまり、現代のアクティブラーニングの原型となる指導法で、子どもたちを導いていたのだ。

寺子屋はもともと、武家の子息の通う学問所に行けない、庶民の子どものための私設教育機関だった。起源は諸説あるが、中世の寺院教育が母体になっていると考えられる。江戸時代、日本では儒学朱子学といった中国伝来の学問が根づいていく過程で、身分に関係なく、多くの人たちが「学ぶ」ことの重要性を理解するようになった。近代につながる教育意識の高まりが、寺子屋の創設・増加にも関係していたのだろう。

寺子屋に通学の強制力はないし、辞めたければいつでも辞められた。逆に言えば、学びたくなったら、いつでも戻って来られる場所だったということだ。

●生徒の個性に対応した柔軟な指導システムだった
勉強しているものとは違う科目に興味が出たら、そちらも自由に教えてもらうことができた。身分が固定されていて、受験というシステムもなかったこともあり、ゆるゆると言えばそうだが、生徒の個性に対応した、柔軟な指導システムだったと思う。

日本では、教育改革が叫ばれて久しい。金融リテラシーなど、グローバル社会で求められる根本的な知識の理解力の低下に、政府も危機感を抱いているのだろう。寺子屋のように、私塾スタイルの教育機関の認可は、もっと進められていい。子どもが好きなときに通い、充分な学びを得られる教育制度の整備を願っている。

日本では、志望する進学先への偏差値が学校の授業で足りない子どもは、ほぼ例外なく塾に通う。それも否定はしないが、僕は動画学習を奨めたい。

僕がたびたび著書などで述べているように、YouTubeには教育系の学習動画が無料で公開されている。学校の先生よりはるかに教え方が上手いプロの先生たちが、ハイレベルな授業を提供してくれているのだ。スマホで、無料で、いつでも好きなときに必要な教科を学べる。本当に恵まれた時代だ。

勉強だけではない。魚のさばき方や美味しい料理のつくり方、服の着こなしテクニックや映えるメイクの方法も、動画で学べる。実践的な技術を会得するのに、指導者や、どこかの稽古場に修業に出向く必要はもうないのだ。

プロサッカー選手の本田圭佑さんが、プロアスリートやビジネスマンのマインド指導を行うオンラインサービス「NowDo」を立ち上げた。世界レベルの指導者が動画で直接若者たちを教えてくれるのだから、一般の指導者の出る幕は、もうないだろう。

最近では、医師による外科手術の先進技術を収めた動画が多数公開されていたりする。医療の進んでいない国の医師は、その動画で技術を学んでいるのだ。

●プロとアマチュアの境目はもはやない
無料動画の充実で、素人革命は加速する。プロとアマチュアの境目は、もはやなくなった。実際に動き出し、独学で技術を身につけた人が稼ぐ仕事に就ける。2019年、プロ野球独立リーグ「ルートインBCリーグ」の関東地区のトライアウトで、当時大学3年生だった杉浦健二郎選手が合格した。彼のポジションはピッチャー。だが高校、大学とも野球部でプレーしていないという。

杉浦選手は、スマホで見るトレーニング動画で野球を学んだそうだ。ピッチングの技術や肉体鍛錬を独学で続け、プロと同レベルの投手能力を身につけた彼のような素人革命の突破者は、スマホブロードバンド時代には当たり前のように続出するだろう。

このような環境にあって必要なものは、1にも2にも実行力につきる。身につけたものを即座にアウトプットする意欲が、成功を引き寄せるのだ。一定の時間をかけた勉強や訓練は、何においても必要かもしれない。だが、蓄積されたスキルではなく、やりたいように動きだし、遊びだったものをビジネスに変えていく個人のセンスが突き抜けた結果を生みだす。そんな時代に、アップデートできていない従来の学校に通い続ける意味は、果たしてあるだろうか?

 

真鍋一郎

大学は「オンライン化」で根本的に変わっていく

コンサルタントが予測する大学の未来予想図リンク

■「親が学生だった頃の常識」は通じない
オンラインで講義はどこまでできるのか。ここでは、「大学の未来予想図」をテーマに掲げ、日本の大学関係者のみならず、これから我が子の進路や志望先に頭を悩ませる保護者の方々へ向けて、今後大学で進んでいくと思われる「教育改革」や「入試改革」について紹介していきたい。

「あらゆる社会活動が自宅中心」という制約を余儀なくされる中で始まった今年の大学の授業は、すでに後期の授業に突入している。実態はどうなのだろうか。そもそも大学の授業は「講義」形式と「実習・実験」形式に分類できる。このうち講義にはリアルの教室(オフライン)でなければならない理由がそもそも少なく、オンライン化は比較的容易だ。

VRを使えば実習のオンライン化も可能
急なオンライン対応のため、不満も聞こえてくるものの、「通学の負担から解放された」と、学業に集中できる環境が実現したと歓迎する声や、非対面であるがゆえのメリットとして「自分の考えを発言しやすい」といった意見も学生から挙がっている。

一方で、主に理系学部で行われている実験や、政治経済学部ケーススタディ、社会系学部にあるフィールドワーク、芸術系学部における制作やレッスンなどの実習では、オンライン化しようにも「リアルの場」を前提として授業が設計されている場面が目立つ。
「学びのプロセス」を実現できれば、リアルの場は必要条件ではなくなる。現代の先端デジタル技術を使えば、実習や実験で求められる環境をシミュレーションで構築することができ、リアルの授業を代替できるほど高い精度を確保することができる。技術的には、実習の大半をオンライン化することができるのだ。

オンラインを前提とした教育の議論をさらに深めていくと、長い歴史の中で積み上げたてきたこれまでの教育手法の見直しや取捨選択に迫られる。そして、「どのような人材を輩出したいのか」「そのためにどのような教育をどのような手法で提供するのか」という根源的な疑問にぶつかることになる。

大学は研究機関としての側面がある一方で、在籍する学生を卒業させ、就職させるという「教育機関」としての側面も存在する。教育機関としての役割を考えれば、オンライン教育を進めると同時に「From(どのような人材を迎え入れたいのかという入口=入試の定義)」と「To(どのような人材を輩出したいのかという出口=ターゲットとする人材マーケットの定義)」の2つの点で、自学の「教育機関」としての在り方の再定義が求められているのではないだろうか。

■オンライン化は教育改革、入試改革に連動
オンライン講義の整備や制度化は単なるツールの話ではなく、各大学の未来をどう描くのかという「教育改革」と同根のテーマなのである。

ここまで授業のオンライン化について考察してきたが、教育機関にはもう1つの重要な要素がある。すなわち「入試」だ。なぜ入学試験は、キャンパス内で監督官の監視のもと、1つの空間に集合して集団で実施しなければならないのだろうか。それは現在の「学力判定」を行うマークシート式試験方式がカンニングなどの不正行為に対して“弱い”からである。

そもそも試験は選抜のためのものである。では、どのような基準で受験生を選抜するのか。先述した「From(入り口)」にふさわしい学生かどうかが、その判定の基準である。昨今の資格試験の多くがオンラインに移行しているように、性善説に立つならば入試もオンライン化は可能である。とはいえ、入学の公平性という観点から、不正防止の難易度は格段に上がる。

■「どんな学生を育てたいか」が重要になる
各大学はいま、戦略的に教育の「実」を変えなければならない。それはいわば、大学ごとに異なるであろう「人材を輩出したいマーケットの定義」「そのマーケットのポスト・コロナ時代のありよう」「マーケットからの人材育成(教育)に対する要請」といった“問い”に、今まで以上にクリアに答えられることが求められているのである。

保護者にとっては「我が子がどのような人材に成長するのか」を具体的にイメージできるかどうかは、上記の“問い”にその大学がどのように答えているか次第。この問いへの回答が明瞭である大学は、ポスト・コロナ時代において競争力のある強い大学だと言える。これらの情報は保護者にとって、我が子を入れたい大学が、どれだけ教育改革を“自分ゴト”として取り組んでいるかを判断する材料となるだろう。

子どもたちの「おもしろそう!」「やってみたい!」を引き出す プログラミングだからこそできる子どもに活動を「委ねる」こと

子供は外遊びが勉強になる。
その中の成功体験や壁にぶつかり成長できる。

現代では、プログラミングが話題


以下リンク

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■プログラミングは現代の砂場遊び
前回、「プログラミングは現代の砂場遊び!」だと訴えました。前原小でプログラミングの授業実践を重ねていけばいくほど、その活動が砂場遊びに興じる子どもたちの姿と重なって見えてきたのです。

子どもたちは砂場遊びが大好きです。砂場をさまざまな世界に見立て、そこに自分の思いを表現しようとします。思いや願いのある活動は、子どもたちを夢中にします。前原小のプログラミングも子どもたちの「おもしろそう!」「やってみたい!」という気持ちを沸き立たせることから、活動に入っていきました。

■“砂場遊び”への誘い
画像: “砂場遊び”への誘い
低学年では、Lチカの素敵な点滅やカムロボを縦横無尽に走らせるプログラムを教えることで、導入を図りました。

中学年では、距離(赤外線)センサーの制御プログラムで子どもたちを驚かせました。センサー制御プログラムによって障害物である手を検知したロボットが止まったり、右に回ったりする様子を見て、子どもたちは「ハンドパワーだ!」と言って興奮していたことを今でも鮮明に覚えています。

高学年のプログラミングは、ドローンを飛ばしてみせるだけで多くの子どもたちは興味を抱きましたし、サイバー空間の導入では、GOTOというコマンドを追加するプログラムで子どもたちの「やってみたい!」という気持ちを沸き立たせてきました。

各学年で行うプログラミング授業の一番初めの時間は、その単元で学ぶ知識と技能を使った指導者によるパフォーマンスで、子どもたちの興味と関心をひこうと工夫しました。そして多くの子どもたちは、そのパフォーマンスを自分でも再現したくなって、説明(Briefing)に聞き入ります。

このとき、そのパフォーマンスを再現する知識と技能を順番を追ってていねいに解説し、子どもたちに理解させることはしません。基本的な操作方法とプログラム作成の考え方を伝えるだけです。

■『どうしたの。何か困ってる?』周りが助けてあげることの大切さ
『どうしたの。何か困ってる?』周りが助けてあげることの大切さ
全員ではありません。先のようなパフォーマンスに、興味を示さない子どもがいるのも事実です。

でもその子の内実を探っていけば、パフォーマンスにある楽しさとかおもしろさを拒否はしていないのです。その日の体調が不良だったり、そこに向かう自信がなかったり、これまでの生活や学習体験によってその子自身が育んできた自己効力感(Self-efficacy)の度合いによって、反応が低調だったりするのです。

ですから、一人一人に即してその状況を理解し、活動との関わり方を一緒に考えていきます。このとき指導者は、その年齢によらずメンターとしての役割を期待されているのです。

「やってごらん!」と活動を促せば、一人で取り組む子どももいれば、友だちと相談しながら進める子どもも出てきます。このとき、何をどうやってよいかわからずに、固まってしまう子もいます。そんな子どもがいることを前提に、活動に入る前には必ず、援助要請と能動的援助の大切さを話します。

「わからなくて、困ったときは、『これどうやるの?』って教えてもらって!」

「そう声をかけられたとき、『お前、そんなこともわかんないの?』なんて、傷つくようなことを言う人はこの学級にはいないよね」

「『こうやるんだよ』と教えてあげれば、『ありがとう!』ってお礼が返ってきて、お互に温かな気持ちになれるよ」

また誰か困ってそうな人がいたら、

「『どうしたの。何か困ってる?』って声をかけて」

「こういう声かけを『能動的援助』って言って、『教えて!』と言う援助要請と合わせてとっても大切な力なんだ。そしてこの二つが自然とできる学級はとっても雰囲気がよくなって、一緒に学ぶことが楽しくなるよ」

低学年からこのような関わりを積み上げていくことで、子どもたちの関係性はより豊かなものになっていきます。そして砂場遊びとしてのプログラミング活動を見守っていれば、このような場面が自然と創り出されていることに気づきます。その場面をすかさず取り上げ、価値付けることこそ、指導者の大事な役割なのです。

■プログラミング授業は結果ではなく過程が大事

子どもたちは、指導者から援助要請や能動的援助の話を聞けば、それを行動で示すようになります。しかし他教科の学習活動では、なかなかそうはならない現実があります。

この違いの原因は、教科学習のねらいが知識と技能の習得にウエイトがおかれ、目標として設定された基準に照らして、その習得状況を評価されることにあるからです。達成すべき目標が設定されていれば、当然それを効果効率的にクリアできることがよいことであって、目標と自分の現状との乖離をさらけ出すような行為(わからないから教えてと言う援助要請)は恥ずかしいことなのです。

砂場遊びとしてのプログラミングの授業は、試行錯誤(Tinkering)の活動によって「粘り強く学びに向かうことの大切さ」や「多様性の尊重」を、効果効率的な知識と技能の習得よりも重視します。だから恥ずかしがることなく子どもたちはお互いに援助要請、能動的援助できるのです。

本当の学びは、子どもたちに活動を「委ねる」ことからはじまる
子どもたちが、「おもしろそう!」「やってみたい!」となれば、グダグダした説明(Briefing)は要りません。「やってごらん」と活動を促すだけです。

砂場遊びを教える大人はいません。大人は子どもの安全を見守り、活動を委ねます。そしてさまざまな気づきに共感的理解を示すことで、彼らを笑顔にさせ、さらなる意欲を醸成できるのです。

 

直永亮明

子どもたちの「おもしろそう!」「やってみたい!」を引き出す プログラミングだからこそできる子どもに活動を「委ねる」こと

子供は外遊びが勉強になる。
その中の成功体験や壁にぶつかり成長できる。

現代では、プログラミングが話題


以下リンク

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■プログラミングは現代の砂場遊び
前回、「プログラミングは現代の砂場遊び!」だと訴えました。前原小でプログラミングの授業実践を重ねていけばいくほど、その活動が砂場遊びに興じる子どもたちの姿と重なって見えてきたのです。

子どもたちは砂場遊びが大好きです。砂場をさまざまな世界に見立て、そこに自分の思いを表現しようとします。思いや願いのある活動は、子どもたちを夢中にします。前原小のプログラミングも子どもたちの「おもしろそう!」「やってみたい!」という気持ちを沸き立たせることから、活動に入っていきました。

■“砂場遊び”への誘い
画像: “砂場遊び”への誘い
低学年では、Lチカの素敵な点滅やカムロボを縦横無尽に走らせるプログラムを教えることで、導入を図りました。

中学年では、距離(赤外線)センサーの制御プログラムで子どもたちを驚かせました。センサー制御プログラムによって障害物である手を検知したロボットが止まったり、右に回ったりする様子を見て、子どもたちは「ハンドパワーだ!」と言って興奮していたことを今でも鮮明に覚えています。

高学年のプログラミングは、ドローンを飛ばしてみせるだけで多くの子どもたちは興味を抱きましたし、サイバー空間の導入では、GOTOというコマンドを追加するプログラムで子どもたちの「やってみたい!」という気持ちを沸き立たせてきました。

各学年で行うプログラミング授業の一番初めの時間は、その単元で学ぶ知識と技能を使った指導者によるパフォーマンスで、子どもたちの興味と関心をひこうと工夫しました。そして多くの子どもたちは、そのパフォーマンスを自分でも再現したくなって、説明(Briefing)に聞き入ります。

このとき、そのパフォーマンスを再現する知識と技能を順番を追ってていねいに解説し、子どもたちに理解させることはしません。基本的な操作方法とプログラム作成の考え方を伝えるだけです。

■『どうしたの。何か困ってる?』周りが助けてあげることの大切さ
『どうしたの。何か困ってる?』周りが助けてあげることの大切さ
全員ではありません。先のようなパフォーマンスに、興味を示さない子どもがいるのも事実です。

でもその子の内実を探っていけば、パフォーマンスにある楽しさとかおもしろさを拒否はしていないのです。その日の体調が不良だったり、そこに向かう自信がなかったり、これまでの生活や学習体験によってその子自身が育んできた自己効力感(Self-efficacy)の度合いによって、反応が低調だったりするのです。

ですから、一人一人に即してその状況を理解し、活動との関わり方を一緒に考えていきます。このとき指導者は、その年齢によらずメンターとしての役割を期待されているのです。

「やってごらん!」と活動を促せば、一人で取り組む子どももいれば、友だちと相談しながら進める子どもも出てきます。このとき、何をどうやってよいかわからずに、固まってしまう子もいます。そんな子どもがいることを前提に、活動に入る前には必ず、援助要請と能動的援助の大切さを話します。

「わからなくて、困ったときは、『これどうやるの?』って教えてもらって!」

「そう声をかけられたとき、『お前、そんなこともわかんないの?』なんて、傷つくようなことを言う人はこの学級にはいないよね」

「『こうやるんだよ』と教えてあげれば、『ありがとう!』ってお礼が返ってきて、お互に温かな気持ちになれるよ」

また誰か困ってそうな人がいたら、

「『どうしたの。何か困ってる?』って声をかけて」

「こういう声かけを『能動的援助』って言って、『教えて!』と言う援助要請と合わせてとっても大切な力なんだ。そしてこの二つが自然とできる学級はとっても雰囲気がよくなって、一緒に学ぶことが楽しくなるよ」

低学年からこのような関わりを積み上げていくことで、子どもたちの関係性はより豊かなものになっていきます。そして砂場遊びとしてのプログラミング活動を見守っていれば、このような場面が自然と創り出されていることに気づきます。その場面をすかさず取り上げ、価値付けることこそ、指導者の大事な役割なのです。

■プログラミング授業は結果ではなく過程が大事

子どもたちは、指導者から援助要請や能動的援助の話を聞けば、それを行動で示すようになります。しかし他教科の学習活動では、なかなかそうはならない現実があります。

この違いの原因は、教科学習のねらいが知識と技能の習得にウエイトがおかれ、目標として設定された基準に照らして、その習得状況を評価されることにあるからです。達成すべき目標が設定されていれば、当然それを効果効率的にクリアできることがよいことであって、目標と自分の現状との乖離をさらけ出すような行為(わからないから教えてと言う援助要請)は恥ずかしいことなのです。

砂場遊びとしてのプログラミングの授業は、試行錯誤(Tinkering)の活動によって「粘り強く学びに向かうことの大切さ」や「多様性の尊重」を、効果効率的な知識と技能の習得よりも重視します。だから恥ずかしがることなく子どもたちはお互いに援助要請、能動的援助できるのです。

本当の学びは、子どもたちに活動を「委ねる」ことからはじまる
子どもたちが、「おもしろそう!」「やってみたい!」となれば、グダグダした説明(Briefing)は要りません。「やってごらん」と活動を促すだけです。

砂場遊びを教える大人はいません。大人は子どもの安全を見守り、活動を委ねます。そしてさまざまな気づきに共感的理解を示すことで、彼らを笑顔にさせ、さらなる意欲を醸成できるのです。

 

直永亮明

学校に通うということにこだわらなくていい

以下(リンク)引用
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●いまこそ江戸時代の寺子屋に学べ
日本人は、先進国の中でも金融(お金の貸し借り)に対するリテラシー(理解力)が低いと言われている。金融学の専門家がSNSなどで発信しているけれど、有効活用できている人はごくわずかだろう。大卒でも、多くの人が直接金融と間接金融の仕組みを理解できていないし、投資と投機の違いすらよくわかっていないと思う。

歴史をひもとくと、意外な事実がわかる。江戸時代まで、日本人は世界有数の金融リテラシーを誇っていた。そのため貨幣経済にいち早く移行でき、計算の複雑な年貢システムにも対応できた。町民同士での商取引に、会計の基礎を採り入れた。利息の複利計算など、庶民が数学の理解力に長けていた。そんな能力を養っていたのは、寺子屋教育だ。
江戸時代の末になると、全国で1万5000以上もの寺子屋が運営されていたという。この寺子屋が日本人の高い識字率を支え、数学や語学など、多分野の理解力を養った。寺子屋を経て、明治以降に洋学者や科学者など幅広い分野で活躍した人は少なくない。

寺子屋の特徴は、いまの学校とは大きく違い、基本的に個別教育だったことだ。師匠と呼ばれる先生が、寺子屋に学びにやって来た子どもたち、1人ひとりの目標や希望を聞きとり、それに合ったカリキュラムを提供していたという。つまり、現代のアクティブラーニングの原型となる指導法で、子どもたちを導いていたのだ。

寺子屋はもともと、武家の子息の通う学問所に行けない、庶民の子どものための私設教育機関だった。起源は諸説あるが、中世の寺院教育が母体になっていると考えられる。江戸時代、日本では儒学朱子学といった中国伝来の学問が根づいていく過程で、身分に関係なく、多くの人たちが「学ぶ」ことの重要性を理解するようになった。近代につながる教育意識の高まりが、寺子屋の創設・増加にも関係していたのだろう。

寺子屋に通学の強制力はないし、辞めたければいつでも辞められた。逆に言えば、学びたくなったら、いつでも戻って来られる場所だったということだ。

●生徒の個性に対応した柔軟な指導システムだった
勉強しているものとは違う科目に興味が出たら、そちらも自由に教えてもらうことができた。身分が固定されていて、受験というシステムもなかったこともあり、ゆるゆると言えばそうだが、生徒の個性に対応した、柔軟な指導システムだったと思う。

日本では、教育改革が叫ばれて久しい。金融リテラシーなど、グローバル社会で求められる根本的な知識の理解力の低下に、政府も危機感を抱いているのだろう。寺子屋のように、私塾スタイルの教育機関の認可は、もっと進められていい。子どもが好きなときに通い、充分な学びを得られる教育制度の整備を願っている。

日本では、志望する進学先への偏差値が学校の授業で足りない子どもは、ほぼ例外なく塾に通う。それも否定はしないが、僕は動画学習を奨めたい。

僕がたびたび著書などで述べているように、YouTubeには教育系の学習動画が無料で公開されている。学校の先生よりはるかに教え方が上手いプロの先生たちが、ハイレベルな授業を提供してくれているのだ。スマホで、無料で、いつでも好きなときに必要な教科を学べる。本当に恵まれた時代だ。

勉強だけではない。魚のさばき方や美味しい料理のつくり方、服の着こなしテクニックや映えるメイクの方法も、動画で学べる。実践的な技術を会得するのに、指導者や、どこかの稽古場に修業に出向く必要はもうないのだ。

プロサッカー選手の本田圭佑さんが、プロアスリートやビジネスマンのマインド指導を行うオンラインサービス「NowDo」を立ち上げた。世界レベルの指導者が動画で直接若者たちを教えてくれるのだから、一般の指導者の出る幕は、もうないだろう。

最近では、医師による外科手術の先進技術を収めた動画が多数公開されていたりする。医療の進んでいない国の医師は、その動画で技術を学んでいるのだ。

●プロとアマチュアの境目はもはやない
無料動画の充実で、素人革命は加速する。プロとアマチュアの境目は、もはやなくなった。実際に動き出し、独学で技術を身につけた人が稼ぐ仕事に就ける。2019年、プロ野球独立リーグ「ルートインBCリーグ」の関東地区のトライアウトで、当時大学3年生だった杉浦健二郎選手が合格した。彼のポジションはピッチャー。だが高校、大学とも野球部でプレーしていないという。

杉浦選手は、スマホで見るトレーニング動画で野球を学んだそうだ。ピッチングの技術や肉体鍛錬を独学で続け、プロと同レベルの投手能力を身につけた彼のような素人革命の突破者は、スマホブロードバンド時代には当たり前のように続出するだろう。

このような環境にあって必要なものは、1にも2にも実行力につきる。身につけたものを即座にアウトプットする意欲が、成功を引き寄せるのだ。一定の時間をかけた勉強や訓練は、何においても必要かもしれない。だが、蓄積されたスキルではなく、やりたいように動きだし、遊びだったものをビジネスに変えていく個人のセンスが突き抜けた結果を生みだす。そんな時代に、アップデートできていない従来の学校に通い続ける意味は、果たしてあるだろうか?

 

真鍋一郎 ( 31 鹿児島 会社員 )