日本電産永守会長の発言から分かる日本の大学生の「異常さ」

日本電産永守会長が炎上! 「即戦力になる新卒」を求めることは、罪深いのか(リンク)」
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前略

日本の大学生は「異常」

中略

海外に目を向けると、企業が大学を卒業した若者たちを採用するうえで最も重視しているポイントは、「即戦力になるか否か」だからだ。

 専攻や研究内容など、大学で学んだことが自社で生かせるのかどうかが大きなポイントになる。また、職種によっては実務経験がないと話にならないので、多くの学生が長期休暇にはインターンシップに参加する。もちろん、成績もガッツリ重視される。つまり、世界では、企業が「即戦力の新卒」を求めても世間から石を投げられることはなく、大学生たちも「即戦力」を目指して勉学だけではなく実務経験も重ねているのが当たり前なのだ。

 しかし、ご存じのように、日本はそうではない。企業が重視をするのは、大学で何を学んだかとか実務経験ではなく、コミュニケーション能力や協調性。そして何よりも「2~3年でサクっと辞めないで、上司の命令に素直に従ういい組織人になれるか」が大きなポイントになる。

 「子どものころからこういう仕事をするのが夢でした」なんて「思い」をぶつけたり、「アメフト部でコーチの命令は絶対に従ってました」とか「海外でボランティアをして見聞を広めました」なんて実務と関係のない自己PRで採用をされる日本の大学生は、世界的にみてもかなり「異常」なのだ。

 

わたっきー

「異常」な大学生を生み出すのは、「新卒一括採用」という富国強兵の亡霊のような制度

日本電産永守会長が炎上! 「即戦力になる新卒」を求めることは、罪深いのか(リンク)」
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■若年層を失業させない「国策」的な側面

 厚生労働省人材開発統括官付 若年層・キャリア形成支援担当参事官室の「第5回 今後の若年層雇用に関する研究会 事務局説明資料」には以下のような説明がある。

 『新卒一括採用は、日本独特の企業の募集採用慣行であり、この慣行により一般の労働市場とは別に新卒者の労働市場か成立。そのため、実務に直結したスキルのない新卒者であっても、学校卒業時に失業を経ることなく就職することが可能』

中略

 「新卒一括採用」という制度は、「即戦力にならない若者」を企業に受け入れさせて、日本の若年層を失業させないという「国策」的な側面もあることが分かっていただけたことだろう。それは裏を返せば、このシステムは、企業を成長させるとか、日本の若者を世界で戦える人材にするとか、そういう視点は一切含まれていない。

もともとの精神は日本という国家の「失業対策」、もっと言ってしまえば、スキルのない人たちへのセーフティネットのような意味合いなのだ。

 そんなバカなと思うかもしれないが、それはルーツを見れば明らかである。「新卒一括採用」という制度がいつ生まれたのかをたどっていくと、明治時代の官庁や軍隊に突き当たる。欧米列強に対抗して「富国強兵」という国策を進めるなかで、人口も右肩上がりで増えていく日本が当時、ドイツなどのシステムをまねたのである。

 その後、他国は時代に合わないと続々とやめていったが、日本だけはこの軍隊的な人員補充システムが残った。人口が爆発的に増えたからだ。人口が右肩あがりで増えたとき、国が最も頭を痛めるのが若年層の失業対策だ。学校をでた若者を自動的かつ効率的に労働現場へ送り込むこのシステムは、人口増の日本では非常にうまく機能したのである。

 「会社はスキルのない若者を受け入れて、手取り足取り育てなくてはいけない」という日本独自の考え方がその証左だ。

 日本の若者は、とにかくスケジュール通りに会社に入ることが重要で、入社してからぞうきん掛けをしたり、研修をしたり、怖い上司にシゴかれたりして一人前に育てばいい。この考え方は、実はまるっきり軍隊の「新兵」と同じなのだ。

 軍隊もとにかく頭数が大切なので、スキルのない若者をじゃんじゃん受け入れて鍛えあげていく。ただ、育て方が軍隊なので当然、「新兵イジメイジメやパワハラに遭遇するのは、採用システムが軍隊を引きずっていることも大きいのだ。

 しかし、前提である人口増が崩れると、このシステムの歯車も狂い始める。日本経済も右肩あがりでなくなるので、企業も成長しない。国際競争力も落ちているので、低賃金・高サービスの原動力だった終身雇用システムも音を立てて崩れていく。計画的に退職させられないので、計画的な入社も難しい。そこで2000年代から続々と「即戦力になる新卒」が求められてきた。

後略

 

わたっきー

遊びとおもちゃは学び、働くの原点

本来子どもの役割は遊ぶこと。
自然の中で仲間と遊ぶ中で、人と何かを成す楽しさや人の痛み、秩序や礼節を学んでいく。

勉強、習い事は本来子どもが強制的にやらされるものではない。
誰かに何かを伝えるため、何かを生み出すために自分から興味を持ち、追求していくもの。
周囲の先輩や大人を見ながらまねていくもの。
その力の根本に遊びがある。

子ども時代は賢さ、生きる力を蓄える大切な時期。だれもが天才。
あらゆる可能性を秘めている。

遊びと学びの歴史を見つめなおし、本来の子供たちの姿を取り戻したい。
活力あふれる社会へ。


以下リンク
リンク

 

白日

勉強って本来どういう意味?学習との違い②

勉強の語源は「勉(つとめ)強(しいる)」つまり、本来は気が進まないことを仕方なくする事でした。
多くの人が嫌いになるのも当たり前ですね。
そしてこの「勉強」が、いつの間にか「学習」と混同してしまいました。
では、「学習」とは本来どのような意味なのでしょうか。
また、勉強との違いはどこなのでしょうか。

以下リンクより引用

「学習」 とは,漢字を分解すれば,「学び」 「習う」 ことです。
 では,「学ぶ」 とはどういう行為,「習う」 とはどういう行為なのだろうか?
簡潔に言えば,「人のまねをして,慣れる」 行為なのです。

 「学ぶ」 は,もともとは 「まねぶ」 であり,「真似ぶ」 こと,つまりほかの人がすることを真似することを言ったことばでした。
 古語辞典にも,「まなぶ」 「まねぶ」 の両方の見出し語があり,どちらも 「学ぶ」 の漢字が載っています。

 一方,「ならう」 も,『広辞苑』 には,「ならう (習う) 」 と 「ならう (慣らう ・ 倣う) 」 が見出し語として並記されていますが,どちらも同源の語と注釈されています。つまり,「ならう」 とは,同じことを繰り返して慣れるということ,また何かを模倣することを言うことばだったのです。

 今の時代では,「学ぶ」 も 「習う」 も,教師による体系的な指導方法 ・ 指導技術によって教えられたことを身につけることと一般的に理解されていますが,昔は,そんな体系的な指導法があったわけではないので,ひたすら 「真似をして」 ,ひたすら反復して 「慣れる」 ことが 「学習」 だったのでしょう。

 では,「習うより慣れよ」 ということわざは,ちょっとおかしくならないか? 「習う」 が 「慣れる」 ことだから,「慣れるより慣れよ」 ということになってしまう ・・・。

 多分,このことわざは,「ならう」 の意味が,人に教えてもらうという意味の方が強くなって以降にできたのではないだろうか。 (この部分は,私の勝手な解釈)

 

前野将克

勉強って本来どういう意味?学習との違い①

勉強することが当たり前の現代。
勉強が嫌いな人は多いと思います。
僕自身もそうでした。
では、そもそも勉強の語源は何なのでしょうか。

以下リンクより引用

■勉強
【意味】勉強とは、学問や技芸を学ぶこと。経験を積んで学ぶこと。商品を値引きして安く売ること。物事に精を出すこと。努力すること。

【語源・由来】勉強は「勉(つとめ)強(しいる)」で、本来は気が進まないことを仕方なくする意味である。
商人が頑張って値引きをする意味の「勉強」は、学問や技芸を学ぶ意味の「勉強」よりも古く、江戸時代から使用されている。
明治時代以降、知識を得るために努力することが美徳とされるようになったことから「勉強」は「学習」とほぼ同じ意味で使用されるようになり、一般的に「学習」を意味するようになった。

 

前野将克

大学生は、何のために自分が勉強しているかわかっていない

(リンクより

大学のオンライン授業が総じて不評というお話をしたのですが、開始して1カ月たち、教員も学生も慣れてきたのか、それなりに落ち着いてきました。

「相変わらず酷い」という学生もいますが「むしろ、オンラインの方が楽でいい」という学生も増えてきており、前期はこのまま進んでいきそうです。

そんな感じで、大学も正常化したきたため、私もいくつかの大学でゲスト講師として教壇に立っております(オンラインで)。

その授業の中で、学生にこんな質問をしてみました。

「小中高校で、何のために勉強をしてきましたか?」
「大学で、何のために勉強をしていますか?」


◆大学で、何のために勉強しているんだろう?
「小中高校で、何のために勉強をしてきましたか?」への答えは、9割が「いい学校に進学するため」でした。予想通りです。そして、「大学で、何のために勉強をしていますか?」への答えは、割れましたが6割が「わからない」でした。

「勉強そのものが楽しい」「教養を身につけるため」「公務員試験のため」など出てきたのですが、過半数が「わからない」。

これが、大学の教育のひとつの問題点だと思います。

そういう私も、今から約20年前、同じことを思っていました。

数学と物理が異常にできた(偏差値70以上)高校生だった私は、早稲田大学理工学部で学者とかになれるかなーと思って勉強を始めたのですが、周りにいる人が明らかに自分よりも勉強ができる人だと気づき、挫折します。

「こりゃ、どう考えても、学者とか無理だね」と気付いて「じゃ、なぜ勉強するのだろう?」という疑問にぶち当たったのです。


◆なぜ日本の企業は、大学名しか見ないのか?
ここで「日本企業は、大学の成績を評価すべし!」といってもあまり意味がありません。というのも、会社が採用したいのは「自社で役に立つ人材」なので、大学の成績と自社での将来の活躍に相関がなければ、大学の成績なんてどうでもいいのです。

一方で、勉強ができること自体は、社内での活躍と相関がある職種も多いでしょう。電気工学や建築、数学や化学などの専門知識は、製造業や建築業のエンジニアや、研究職ですぐに役に立ちます。ですから、理工系の学生は、学部推薦という形で、学校の成績がそのまま就活に役に立ちます。

また、専門的な学問でなくても「長時間机に座って集中できる」「先生が話した内容を理解する」「わからないことがあったら、本やウェブで調べる」といったスキルは、仕事をする上で非常に有用です。

ただ、このような技術があるかどうかは、大学入試の結果でわかります。難関大学に入学をするということは、多かれ少なかれこの技術を持っているわけで、入学した大学を見れば分かってしまうわけです。そのため、企業は大学の成績ではなく、入学した大学の名前を見るのです。

大学時代の私は、ここまで理解して「勉強してもしょうがくなくね?」という結論になりました。私の授業を受けた60%の学生も同じことを考えているのでしょう。

そこで、20年前の私は、こんなことを考えました。

「じゃあ、企業が求めてるのって、どんな人だろう? そのために何をすればいいんだろう」

そのひとつの結論が「お客さんや、会社を幸せにできる人」です。

つまり、仕事の経験をし、それをエントリーシートや面接で話をする、その話す内容が「こんな体験をして、お客さんを満足させました。だから、あなたの会社に入ってからも、お客さんを喜ばせる仕事ができます」になっていれば評価されるだろうと考えたのです。

(略)

今の学生は「人の役に立ちたい」と考えている人が思った以上に多いです。しかし、具体的にどのように役に立てるのかがわからずに迷走しています。だから、「こういうことを学んで、こういうことができるようになったら、こうやって人の役に立てる」ということを学ばせてあげてほしいのです。

カンボジア人に意見を聞いて、好まれる製品を開発すれば、カンボジア人の人が喜んでくれて、対価として売上が上がる。メキシコ人に話を聞いて、よく使っているSNSを調べ、そこにマンガアプリの広告を打てば、多くのメキシコ人がマンガを楽しんでくれて、アプリのアクセス数が上がる。

こういう、お客さんと会社を喜ばせることができるという、ストーリーを伝えてほしいのです。

そのために、教員の皆さんには「なんでこの学問を学んでみようと思ったのか?」「学んだことによって、どんないいことがあったのか?」ということを、今一度考えてほしいなと思います。

 

井垣義稀

みんな同じ、みんな一緒を重視する教育をやめるべき

昨今の世の中の流れや社会に求められる力などから、日本の学校教育がおかしいかが隠し切れない状況になってきています。子供たちの親などからも社会で役に立つ力や考え方を学ぶ場にして欲しいなどの意見もあるように社会全体が学校の意識転換を望んでいます。


--------------------------以下引用--------------------------
リンク


みんな同じ、みんな一緒を重視する教育をやめるべき。海外の飛び級制度のような、個人の能力に合わせて教育を受けれるようにしてほしい。多様性の受け入れにもつながる。個性が認められる社会を作るきっかけにもなり、いじめも減る。
「先生に注意されるから」、「みんなそうだから」、「集団生活を学ぶ場だから」、「何でかわからないけど決まりだから」と、いまだに個性をつぶす教育が横行している点は、早急に見直した方が良い。通知表も、他人の評価ばかり気にする子になってしまうから自己評価表にするべき。
学力テストでの学力の差別化、子どもの能力の数字化はやめてほしい。授業のほとんどがただのテスト勉強に。過去問題をただ単にたくさんやった子が点数取れるテストなど意味がない。宿題は、時間がない先生が採点に忙しいだけ。宿題よりもっと家族や友人や地域で育む時間など大切なことがある。失敗してもいいって教えて欲しい。
子ども自身の人生や自分自身の歩み方についての勉強や学びが、本当に少ないなと思います。教科書どおりに学ぶのではなく、子ども自身が興味があることを伸ばしつつ、それに基づく勉強もしっかりすればいいのかなもしれないなと思いました。好きなことや、やりたいことを摘み取ってしまったら悲しいし、何より時間がもったいないなと思います。それなら、もっと遊ぼうよ!と思ってしまいますね(笑)
小学校でも留年させてほしい。教育を受ける権利。理解してから進級してください。分数を理解してない大人、人生損してるよ!
学校は、足並みを揃えすぎ。はみ出た子どもを気にしすぎ。学校側から管理しやすいというのはわかるけど、人は人、自分は自分です。
ほかに、校則や服装、生活指導といったルールの見直しを訴える声や、「1クラスの生徒数を少人数にして手厚い対応ができるようにしてほしい」といった意見も出ました。

日本の平等教育とは、「同じ内容を一斉に教える」という一斉教育が主流で、そこには「理解している」は含まれていないこともあります。しかし海外などで考える「平等」とは、「ここまでは理解させて上の学年に行く」というもの。日本ではほとんどない留年も、海外ではあるとされています。

「本当の教育とはなにか?」親自身も今後ますます考えていかなければいけない時代なのかもしれませんね。


■パパママが望む“義務教育”のあり方とは
アンケート結果を見てみると、パパやママによって義務教育に“重視してほしい”点、そして“減らしてもいいと思う”点はさまざまでした。

かつて自分が学校で学んだことがどれだけ“今”に役立っているか。逆にどんなことを学校で学びたかったか。そんな経験を踏まえてパパやママが望むのは、教科というよりも、生きる力…、“将来子どもが生き抜くための力”を養ってほしいと思っているように感じました。

必修科目が増え、今後どうなるかわからない点もありますが、学校、先生、地域、そして家庭でうまく連携を取りながら、子どもたちの豊かな成長を促していければいいですね。


以上