学校に行きたくない」 コロナ禍の子どもにストレス

コロナだと何回も世の中が大騒ぎになっていた。さすがにみんなが疲れているだろう。自殺率が今までより上がっているニュースもよく見るが、人と会えないストレス、お金がなくて生活が困るストレス等。人々の生活がどんどん苦しくなっているように感じた。その中で、子供たちは何が起っている。これからどうなるもわからない人も多いだろう。これ環境で成長する子供たちは、追求力が芽生えるか、不安思考が強まるか。

リンク より引用
安定した時期で、9割以上が通学を再開していた。

 しかし、回答前の1週間に「学校に行きたくないことがあったか」との質問に対しては、小学校1~3年生(874人)のうち20%が「ときどき」、4%が「たいてい」、5%が「いつも」と回答。高校生(157人)でも「ときどき」24%、「たいてい」6%、「いつも」7%だった。

 この結果について半谷研究員は「全体でも『ときどき』が19%、『たいてい』と『いつも』を合わせて11%。全体の3割が『学校に行きたくない』と感じている。これは、子どもたちがこの時点でも大きなストレスにさらされていることを示している」と指摘する。
同じ傾向は、睡眠状態からも垣間見える。「起きられなくて学校に行けないことがある」との回答が中学生で10%に達したほか、全体でも44%が「朝、ちゃんと目が覚めるのに時間がかかる」と答えており、ストレスによる睡眠障害が多くの子どもに起きている可能性を示している。

 ストレスの背景には、保護者と学校の教員との間の意思疎通の問題があるようだ。「学校で授業や行事を変更する理由が説明されているか」との質問に対し、「全くない」との回答が7%、自分たちの考えを聞くための質問などをしてくるかどうかについても、10%が「全くない」としている。

 家庭でも同様で、過ごし方を変える際の説明が「全くない」と10%が答え、7%が自分の考えを質問されることが「全くない」との回答を選んだ。さらに説明や質問の機会について、「ときどき」と「少しだけ」あるとの回答は合わせて30%前後あった。

◇保護者「子どもに説明している」
 一方、保護者の側は、子どもたちに説明したり、質問に応じたりしていると考えているようだ。回答では、「全くない」が1%、「ときどき」と「少しだけ」を合わせも30%。全体の7割近くが子どもたちに理由を説明しているとしていた。

 また、「子どもが自由に考えを話せるように工夫しているか」との質問に対しても、「全くない」は1%、「ときどき」と「少しだけ」を合わせても27%。やはり7割以上が子どもの考えを聞こうとしている、と考えている。



 ◇子ども「意見聞いてほしい」
 自由回答を見ると、「子どもがはっきりと意見を言える場所をつくってほしい」(小学5年・女子)、「時間を決めて話を聞いてほしい」(小学3年・男子)といった声が目立つ。

 さらに、「否定から入らず『そういう考えもあるのだ』と1回受け止めてほしい」(高校1年・女子)や「自分以外の考えや気持ちも聞いてほしい」(小学5年・女子)など、保護者側への要望も次々に寄せられた。

 特に、学校については「先生と気軽に話せる環境づくりをすべきだ」(高校1年・女子)、「一方的ではなく、お互いが意見を言える場を設ける」(同)など、教員側の姿勢に対する注文が多く見受けられた。

 半谷研究員は「子どもであっても理由を知りたいし、自分たちの意見も聞いてほしいのは大人と同じだ。新型コロナという特別な事態であればあるほど、保護者や学校の教師たちは子どもたちの訴えに耳を傾けてもらいたい」と話している。現在、同センターは、子どもの抑うつ状態を中心に4回目の意識調査に取り組んでいる。 (了)

 

きんぐ

日本の大問題。自分の頭で考える子ばかりがいじめられる妙な空気感

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■集団圧力に負けない、正しく考える力とは
小学生や中学生の「いじめ相談」を受けていますが、子育ての相談にのることもあります。その中で、学校文化、いわゆる日本独特の問題につきあたることがあります。つまり、欧米では問題にならないのに、日本では問題になるということです。それは、価値観の問題でありますが、「集団圧力」という空気が支配する問題です。

少し前のことです。2学期が始まってすぐ、ある公立中学生男子のお母さまから、相談がありました。息子さんは、成績優秀で英語とピアノが得意ですし、スポーツもそこそこにできる子なのですが、すこし頑固なところがあります。

お母さまは、仕事休みの日にたまたま中学校のグラウンドの横を通りかかり、自分の息子さんが、体育大会の集団演目である、演舞というか集団ダンスの練習をしているのが目に入りました。そこで息子が参加してはいるのですが、手足をふる程度で、いかにもいやいや付き合っている様子で、参加しているとは言い難い姿を見たのです。そんなことをしているのは自分の息子だけだったそうです。

指導の先生も冷たい視線を送っていますし、周囲の子も遠まきにしており、関わり合いたくない様子です。きっと何度も注意されたのでしょうが、指導にしたがわなかったのでしょう。

「このままでは、体育の成績が悪くなり、希望の高校受験に失敗してしまう」と、お母さまは思ったそうです。その都市では、高校受験に内申点がかなり重要視されており、英語や数学がよい成績でも、音楽、美術、体育などの内申点が「1」だと志望校入学が難しいのです。

本人はお母さまに、「やりたくないから」と言うだけです。お母さまはオロオロしてしまい、担任の先生と話をしたようですが、「中3という、この時期に信じられません。彼のやる気のなさの問題です。家庭に問題があるのでは?」と言われてしまい、泣き崩れてしまいました。

子どもの頃に面識のあった子どもだったので、私は、下校時に偶然を装って通りがかったお母さんの友達のおばさんを演じて、本人にストレートに聞いてみました。彼は「だって、ソーラン節だよ。北海道の民謡ではないですか。僕は昨年の先輩たちの演舞を見て、3年になってすぐクラスで話して、まとまったから全体に提案したんだ。この地方の音楽を使った郷土愛にあふれたものにしようって。一度は話し合いで、クラス代表が集まった全体の会議でそれが決まった。でも、先生たちが嫌な顔をして。みんな先生たちの顔色をうかがって去年と同じにした。くだらないから、やりたくない」。

なるほど、一応、理由があったわけです。「でも、集団のダンスなら、君一人がやらないことで調和が崩れて、台無しになってしまうし、運動だと思って割り切ってやれば」と言うと、彼は「中学生最後の思い出に、記念になるようなものを…という目的で熱心に話し合ったのに、例年通りじゃあ意味がないし、意味がないってことで、僕は筋を曲げたくない」と言い張ります。そこまで言うなら良いでしょう。先生には、彼の主張は伝わっていたようなのですが、生徒たちみんな、特に他のクラスの人達には伝っていないようでした。

私が会った時には、彼ひとりだけで下校していましたし、カバンがいやに汚れていました。理由を聞いてみると、体育大会の練習がはじまってから、友人たちは彼を避けるようになり、教室では物が隠されたり、様々ないやがらせ、ハラスメントを受けているようなのです。

彼は「たとえ、知らないところでカバンが蹴られて白くなっていても、それを見たところで先生たちは知らん顔さ。僕は先生に逆らっているから。いじめはダメの法治主義でなく、集団圧力という人治主義なのさ。これが日本という国なのさ」と言います。

とても頭の良い子です。そして、“我一人行く” ある意味、見上げた根性です。このような学生はめったにいません。

そして、ルールや手順を遵守しながら討論をかわすでもなく、長いものに巻かれろ、で先生の意向や集団の空気で決まることへの理不尽さをよく分析しました。彼なりに、考えに考えて出した結論なので、ダンスをやらない自由を選ぶ以上、自己責任をとらねばなりません。成績が悪くなっても仕方ありません。

実は、彼は幼稚園から小学生まで、お父様の仕事の関係で、欧州各国で教育を受けていました。そのため、納得するまで討論し合いたいのです。空気が支配する、日本の学校集団文化には馴染めないのでしょう。

しかし今回の件は、学校も本人も双方、度を越していると、私は考えました。私は、お母様にこのことをお伝えし、お父様と交えて話し合いをして、学校に、「たとえどんな理由があったとしても、いじめやハラスメントは許されない。ハラスメント行為をやめるよう指導をしてほしい」と申し入れをするようにお勧めしました。その結果、いじめ行為は無くなりました。

日本人から見たら、ただの我がままに見えるかもしれません。チームワークを乱す、悪いヤツかもしれません。しかし、学校は思春期の青年たちに「なぜ、ソーラン節なのか」を少なくとも説得力を持って説明する責任はあったでしょう。また、民主主義はさまざまな意見を大切にします。反対意見の相手の人権も守るという観点からみたら、この事案は特にアフターフォローも必要でした。

さらに大きな視点では、「人権」を守る、ということが、「法治主義のもとでの民主主義でなければ、守られないのだ」、という永遠性のある真理を伝えるエピソードになっています。

いま香港では、大学を卒業したばかりのアグネス・チョウさんら民主活動家が、過去のデモ行為について、裁判で有罪とされ収監されました。本来、効力が及ばないはずの「行為の後につくられた法律」によっても裁かれるのではないか、と懸念されています。むずかしい言葉で言えば、「法律の不遡及(ふそきゅう)の原則」に則っていないということです。それでは、法治主義の国ではなく、人治主義の国ということになります。このような大人の世界の現在進行形の「いじめ問題」に対し、民主主義の国アメリカならどのような意見を発するのでしょうか。もしかしたら、今ならば、「もう自由はないので、空気読め」なんて、言い出すこともあるかもしれません。

価値観の違いについては、私たち日本人も身近な問題から大きな問題まで、ぶれることなく正しい選択や判断ができるよう、考える力を身につけたいものです。

 

 
直永亮明

IQ160が語る学校教育のおかしいところ

教育とはなにか?
学校教育が始まり長い年月が経過していますが、今の教育方針が本当に正しいかはわかりません。
本当に必要な教育とは、何かもっと正しいあり方があるのではないか。色々と考え転換していく必要があるように感じます。


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①教科書に書いてあるのに板書をノートに写す必要がある
「教科書は出版社が力を注いで、わかりやすく、理解しやすいように作ったものですよね? その内容をそっくりそのまま黒板に板書し、ノートに写す…普通に考えて、汚く、わかりにくくなりませんか?
ノートをとることで暗記できるわけでもないし、とったけどそれっきり、ということもあるでしょう。時間のムダだと思うことも多かったです」

②静かに自習することを強制される
「先生が休むと自習になることがありますが、ここで静かに勉強することを強制されるのはおかしいと思います。なぜなら、暗記や勉強には音読が効果的だから。
視覚と聴覚を一緒に使うことで暗記の効率は全然違うのに、『なんとなく真面目に勉強しているように見える』というだけで沈黙を強制するのはおかしい」

③教師に知的好奇心を感じない
「高校までは『子供が好き』『教えるのが好き』という理由で教師になる人が多いんだと思います。ですが、学問の奥深さはそんなことでは伝わりません。
暗記ばかりの世界史の授業なんかより、NHKの『映像の世紀』を見せたほうがよっぽど学びがあるのではと思います。もっと、学ぶ楽しさを感じさせてください。そうすれば、おのずと進学実績もついてきますから」

④授業のスピードが遅いので他の科目の内職をしていると怒られる
「通常、授業は平均的な生徒のレベルに合わせて行われます。そうなると、IQの高いギフテッドにとってはスピードが遅く、非常に暇です。時間もムダですので、他の教科の自習を平行して行っていると、なぜか教師に怒られます。
『ちゃんと授業を聞け!』と言いますけど、聞いた上で自習しているんですけどね」

⑤世界史の授業の時に関連書籍として『罪と罰』を読んでいると怒られる
「授業中は教科書と参考書以外の本を机の上に置いてあると注意されることがりますが、以前世界史の授業でドストエフスキーの『罪と罰』、塩野七生の『ローマ人の物語』を片手に授業を聞いていたら、なぜか没収されました。
いやいや、どう考えても関連書籍でしょ? 教科書や参考書だけが勉強道具なんでしょうかと私は聞きたい」

飛び級で大学に入ることができない
「これはまあ普通の疑問ですが、なぜ高校2年生で大学に入れないのか。日本人は本当になんでも足並みをそろえようとしますが、甲子園球児も高校1年生で出場しているんだし、大学受験もそれでいいのではと思います」
高いIQを誇る人の考えゆえに、すぐには共感できそうにないものも多い。しかし、彼の発言は「大事なのは体裁ではなく、実際にどんな学びを得ているか?」という点では一貫しているとも言える。
日本では優秀な生徒に対するフォローが欧米の先進国に比べて薄いと指摘されているが、今後改善されていくのだろうか?

 

 

世界革命前夜意識

世界新体制(トランプ革命)-1(吉田繁治氏)リンク
世界新体制(トランプ革命)-2(吉田繁治氏)リンク

こちらの記事を読ましていただきました。それで率直に言うと、世界は1月20日には、世界が大転換する。アメリカ率いるトランプ(奥の院)によって古い観念群や制度、意識、支配階級が消滅し、2000年の金貸し時代をひっくり返し、まったく未知の領域に突入するという革新的な内容でした。

 要はみんなが本当に考え出す時代、管理が終わる⇒意欲、活力が潤いだす時代になるということです。私はこの時代を生まれた時から潜在的に必要としていました。本当に追求したいことを追求できる社会はみんなの心の中でみんな絶対に求めています。それが今自分の目の前にあるとなったらワクワク感が止まりません!

 そんなワクワク状態の中でいろいろな疑問が生まれてきます。「学校はどうなる?」「今の子供はどうなる?」「問題化されてきた家庭はどうなる?に続き子育てはどうなる?」今を見たら「ロスチャイルドはどうなる?」「コロナはどうなる?」「マスコミはどうなる?」「必要な力は何になる?」とか頭では数えきれない「何?」「何で?」「どうする?」が止まりません!

 他の子供たちに話を聞いてみると「不安はなく、めちゃくちゃ楽しみ」「えーマジであと一週間もないやん笑」「想像が全然つかない!でも楽しみ」「来週学校いかんくていいやん笑」と笑顔で言っていた。

 少なくとも今の子供の状況は管理、強制の異常空間→意欲、活力、追求心どん底⇒脱管理、脱強制、勉強したくない!相手の為になりたい!などの意識がコロナによって急上昇している。そして潜在的に大転換の予兆を感じ取っている以上ますます新たな可能性に向かう意識が言葉にできないほど上昇している。子供だけではなく大人もわずかにそいう意識はある。今現に類塾の遊学舎、類学舎を求める声や「これからどうなる?」「どうすればいい?」などの答え欠乏、認識欠乏が大きく上昇している。

 世界が大転換する前夜意識がまさにこんな感じである。

 結局はこの潮流の意識に応えていける企業または人間が生き残っていけるのである。学校は言うもなく100年前から道を間違えている以上この世界の大掃除に生き残っていけないわけがない。ましてや学者や官僚、西欧科学も同じようなものです。私はこれを「マジ最悪」などとは思いもしません。逆に嬉しいぐらいです。私はこの時代を生き残っていけるのは本当に対象発で考えれる追求力を持っているか、いないかにかかっているのかなと思います。

 

 

教師の支配感 ~スタンフォード監獄実験~

■自分が小学生・中学生くらいの時、大人ってなんだかすごい偉大な存在に見えませんでしたか?

特に、学校の先生というのは人によってはその先の人生に大きく影響を及ぼす存在となります。

外部世界からある意味隔離された、あの学校という空間において生徒が教師を盲信してしまうのも仕方のないことなのかなと思ってしまいます。

教師は生徒よりも立場がかなり強いのです。

特に小学生相手ではクラスの支配というのは割と簡単にできるでしょう。

大人を何十人も相手にするというのとは全然違いますよね。

例えば、「先生に言いつけてやる!」っていうのも教師がトップに君臨している事実を皆が共有しているからこその発言です。

生徒同士が問題を起こしても教師が間に入れば大抵収集がつきますし、生徒は教師に逆らえないというのが実際のところ。

この生徒に対する支配力のせいで教師の生徒に対する”指導”が指導の度を超えていく可能性の大きな要因です。

きっと「話がおおげさ…」という方は多いと思います。
 
しかし、行動というのは自らの役割に強く影響をうけるものなのです。


■突然ですがスタンフォード監獄実験というものをご存知でしょうか?

(知らない方のためにウィキペディアの説明を貼っておきます)

「心身ともに健康な21人の被験者の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるということが証明された」

一般人に看守役と受刑者役という役割を与えて演じさせるだけで行動もその役割に相応しいものになったのです。

実験の日数が経つにつれて、誰も指示していないのに看守役が受刑者役に罰則を与え始め、暴力まで振るうようにまでなったといいます。

これには支配者と被支配者の構図が明確であることも大きな要因の1つでしょう。

教師(特に小学校)に関して言えば、その役割上、接する相手は自分より弱い立場の人間達です。

スタンフォード監獄実験では”仮の役割”を与えただけですが、教師にとってその役割は”本物”。

度を超えてもおかしくないと思います。

事実、私の小学校のときの教師の指導は指導の範疇を超えたものへと変化していきました。
リンク

 

 

教師は、教育において必要な存在か!?

昨今の現代教育において、教師の存在と学校の存在は本当に必要でしょうか?
コロナ禍により、学校に行かない子供たちも増加していますが、勉強はできているはず。改めて日本の学校の役割と教師の役割を明確にする必要があるように感じます。


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『学校の外でより効率的に行えることするためにわざわざ学校に行くのは無駄である』
という意味の主張を繰り返しています。過激な論調だとする批判も多く見られますが、学校教育の現状を考えれば彼の論は的を射ていると言わざるを得ないでしょう。このあと詳しく述べていきますが、現状の学校教育の多くは、学校外でも可能なことを学校に集めてより非効率に行ってしまっています。であるとすれば、「学校は不要である」という論は覆しようのない正当な主張ということになります。いくつかの記事に分けて「学校不要論」を取り巻くいくつかの論点について私の考えを記していきたいと思います。みなさんの学校・授業が生徒に提供している価値は、わざわざ学校に来て得る必要のあるものなのかどうか、是非この機会に一度考えてみてください。

■日本における学校の成り立ち
 現在の公教育のしくみは、もとを辿れば18世紀のプロイセンに端を発しています。語弊を恐れずに端的に言えば、プロイセン・モデルの目的は、自分の意志で学び、自分の頭で考えられる人間を育てることではなく、機械的に働く従順な市民を生み出すことにありました。一度稼働し始めれば停止したり速度を落としたりすることが困難な蒸気機関の工場で能率的に生産活動に勤しむ労働者を育成するためには、チャイムが鳴るに合わせて予定された次の回へ機械的に進行し、教師の一方的な統裁の下に黙って講義を聞く学校教育のシステムは極めて有効に機能しました。維新後、近代化を急いだ日本も、近代国家に相応しい教育システムを整備するにあたっては古き良き教育のあり方をかなぐり捨ててこのプロイセン・モデルをほぼ原型のまま輸入しました。
 
■求められる教師像とは?
 教育改革は、少なくとも 20 年以上先を見据えて取り組まなければなりませんが、今現在の教育に携わる人たちは現在の常識や価値観を基準にしており、親世代は自分が受け た 20 年以上前の教育を基準にして考えますので、そこには 40 年以上のギャップがあるという指摘もあります。しかも、これから先の社会の変化は、過去の変化とは比べもの にならないほど加速度のついたものとなることが確実です。
 ここで述べられているように、世の中の変化にもっとも疎いのが学校の先生たちです。多少極端な表現であるかもしれませんが、ビジネスの世界で進歩する技術の影響に恒常的さらされ生き残るためにつねに頭のアップデートを求められる実社会の人々とは違い、旧態然とした因循な世界で変化するインセンティブを持たずとも生き残ってゆけるのが学校社会です。
 しかし、教員の頭が古いことによる負の影響は直接的に学習者に及びます。先の引用にある通り、今後の社会への見通しを持たずに最適な教育目的を立てることはできず、目的に誤りがあれば、授業目標の誤り、授業設計の誤り…と連鎖的に誤った教育が生まれます。同提言には「2045年には、コンピュータの能力が人間の能力を上回る技術的な転換点が訪れるという予測もあり、私たちの仕事や生活に、現在の常識を覆すような変化がもたらされる可能性があります。 」とありますが、これが事実なら、今まさに学校に通っている子どもたちが壮年期を迎えるころにそのような世の中に変化しているということになります。

■無識の指揮官は殺人犯なり。
教育者たるもの、これから世の中はどう変化してゆくのか、今後の社会ではどのような力が求められるのかについて、つねに学び続け、脳みそをアップデートし続けなければなりません。


以上

 

 

遊ぶようにして生きる力を養う

2020年度から学習指導要綱が大きく変わり、より主体性が重視されるようになった。

自ら問いを発見して考える力や、創造力に期待する社会のムードも自然と高まることだろう。

この大転換の足音に気づき始めている人もいるが、まだまだ学校教育の強制圧力で染みついてしまった洗脳から脱却できる人は少ない。

ポイントは、【遊び】、【探求】、【働く】だ。

(以下、リンクより引用)

■教育大改革を先取り! 子どもの発想力を引き出す「新型学習塾」のユニークな授業
 いま、自由研究にも通じる『探究ラボ』という新しいスタイルの授業を展開する学習塾が注目を集めている。ここでは従来の“知識つめこみ型”ではなく、子どもたち個々人の才能と創造力を引き出すことを目的にしているという。どんな授業が行われているのだろうか。

 木漏れ日がキラキラと差し込む、夏真っ盛りの山の中。辺りを駆け回るのは、花の色を比べたり、植物や木の根っこを採集する子どもたち。スコップを片手にひたすら穴を掘り続ける子もいる──。これは、学習塾『a.school』が主催した軽井沢での4日間の夏合宿「自由研究×自然体験 自然探究キャンプ」の様子だ。小・中学生がそれぞれに、花の色の種類、根っこの形の違い、雨はどれくらい土に染み込むのかなど、自ら設定したテーマに向き合っていた。じゃれあいながらも真剣に意見を主張し合うさまは、さながらいっぱしの研究者のよう。そこには「自由研究、何をやったらいいだろう……」と思い悩む姿はない。

「普段、学校の授業では算数の公式や歴史の年号といった“知識”を学んでいるのに、いきなり“自由に研究してきて”と言われても、とっかかりがないし難しいですよね」とa.school代表の岩田さん。

 では、どのようにして子どもたちが自ら動きだす“とっかかり”をつくるのか。

「なにより大切にしているのは、子どもたちの好奇心を育てること。好きだからこそ学ぶという感覚と、物事を自分で深掘りして考えられる力がつけば、大人になって社会に出ても必ず通用するはずですから」(岩田さん)

■塾を飛び出してまちを探求!
「自然探究キャンプ」は夏休みだけの限定コースだが、そのもとになっているのが年間通じて行われている「探究ラボ」というクラス。探究ラボでは「考える、つくる、発表する」を1セットとして、設定したテーマに約3か月かけてじっくり取り組んでいく。塾でありながら、テストの点数を上げるためといった直接的な学力の向上を目的としていないのが特徴。だからだろうか、子どもたちの表情は明るく、発言も活発。いわゆる学ばされている雰囲気は一切ない。

 あるときには“まち”をテーマに、生徒と一緒に商店街に繰り出し、商店主たちにインタビューをして回った。インタビューするのも、質問を考えるのも、もちろん子ども自身だ。

 和菓子屋、魚屋、医療器具店に理髪店……。何人もの話を聞くうち、ある生徒は「職人はなぜ仕事愛のある人が多いんだろう?」といった探究の種を自然と見つけていた。そして、こうした問いをさらに深めるために自ら大人にアンケートを取ったり専門家を訪ねたりして調査を進めていくのだ。

 最後は、探求によって知ったまちの魅力をオリジナルのカードゲームで表現。ゲーム会社の力も借りて商品化までこぎつけた。

 スタッフや保護者の助けもあったとはいえ、完成した作品はルールやイラスト、デザインまで、すべて子どもの手によるものだというから驚かされる。

「ぼくらは、生徒が“ノル”状況を整えることに注力して、細かいことにはあまり手を入れません。助走さえつけてあげればあとはうまく進むので」

 子どもに達成感と自信をつけさせるには、周りの大人が手や口を出しすぎるのではなく、主導権をしっかりと子どもに預けることが大切。そのうえで、適切な問いかけによって発想を引き出したり、違う視点を与えたりするという。

「老人あつめ様」というカードゲームをつくった、当時小学5年生の阿部兼宗くんは、「ルールづくりは難しかったし完成まで5か月くらいかかったけど、自分の考えたものが本格的なカードゲームになったのがすごくうれしかった」と、手応えを語る。

「老人あつめ様」は、探究ラボでのまち歩きの際に、ひとり暮らしの高齢者と若者との共生を目指すNPOの取り組みに兼宗くんが興味を抱き、探究してゲーム化したもの。完成した作品がNPOの代表に喜んでもらえたこと、さらには塾生たちでゲームショーに出展して来場者の大人相手に販売まで行った経験も財産だ。

■遊ぶようにして生きる力を養う
 同じく塾生で、中学3年生の吉井伶衣さんは「自分が苦手な科目を楽しく学ぶには?」という探究テーマに基づいて作った教材キットを見せてくれた。伶衣さんは以前、岩田さんにすすめられて、高校生による“研究発表コンテスト”に中学生ながら出場。大勢の聴衆の前でのプレゼンの末、高い評価を得た。

「みんなの前で話すことはこの塾に通ううちに慣れました。授業では毎回、意見交換をするし、研究成果の発表もいつもやっていることなので」(吉井さん)

 探究ラボにはそのときのテーマごとに専門家がゲストとして訪れ、探究するチームも異なる学年同士が交ざる。大人でさえ人前で話すのが苦手な人は少なくないが、あらゆる年代の人と頻繁に交わることも大舞台でも臆さないコミュニケーション能力を高めている。

「いろんな働き方をしている大人たちに会えるのはおもしろいし刺激を受けます。塾なんだけど、勉強というより遊んでる感じかも(笑)。私、ここに通い始めて、人生変わったと思う」と話す吉井さんの視野は遠くにまで広がり、いずれ海外留学をしたいとも考えている。「将来やりたいことがたくさんありすぎる」という阿部くんは現在、自ら中学受験への挑戦を決め、奮闘中だ。

 学びに対するふたりの前向きな姿勢に触れていると、ここが優秀な生徒だけが集まる塾であるかのようにも感じるが、同時に不登校児や学校になじめない子も自然体のままに通い、自分の個性を伸ばしながら社会で生き抜く力を養っている。

「今は、終身雇用がなくなったり、これまで常識だと思われていたレールがどんどん崩れている時代。言われたことをそのままこなすことよりも、自分の人生を自分で描いていく力の必要性が高まっていると思います」(岩田さん)

(引用終わり)

 

志葉楽