オンライン授業によって、学校史上初めて、必要か否かの判断がつきつけられる

大学教員は、自身の講義の中身を「シラバス」として公開しているが、当然ながら、それは、いかにも文句のつけようのないものになっている。
 
 実際の内容や進め方については、各教員に完全に任されており、実際の中身は、講義を受ける学生以外は知る余地がないというのが、これまで。

 それに対して、オンライン授業は、学生だけが見ているとは限らない。保護者や兄弟、はたまた友達、あるいは、学生がオンライン授業を録画して、ネット上にアップする事も想定される。つまり、オンライン授業は、その全てが一般公開され、評価を受ける事になる。

 これによって、講義の質があがるという期待がある一方、学生相手に「だまし」のような事をやってきた教員や大学は、一掃される事になるだろう。

 そして、これは、大学だけに限らず、小学校、中学校、高校、全ての「学び」に対する圧力となる。

リンクより引用します。

※※※以下、引用※※※

オンライン授業で大学が変わる 同志社大学名誉教授・三木光範

新型コロナウイルスの感染は収束に向かっている。しかし、大学の授業は「3密」を避けることができないため、春学期の授業をすべてオンラインで行うことを決めている大学も多い。

(中略)

 大学の授業の内容や進め方は各教員に完全に任されている。科目名は決まっているが、どんな教科書を使うか、どんな方法で授業するかは自由である。授業の内容を概略的に示したシラバス(授業計画)はホームページで公開されているため、不適切な内容を書く教員はいないが、受講してみないと内容が分からない授業も多い。

 大学の授業は他の教員や保護者に見せることはない。このため、各教員が何をどのように教えているのかは学生に聞かないと分からない。教室に入ってくるなり黒板の左上から右下まで、延々と難解な数式を書き続け、学生はひたすらそれをノートに書き写す授業、教科書を棒読みする授業、自分の過去の自慢話ばかりという授業もあるそうだ。

 ≪授業の質が問われるとき≫

 こうした授業を続けてきた教員にとっては、オンライン授業でそれが録画されることで、授業の質が明らかになる。録画された授業を他の教員や学費を負担している親が見る可能性があるなら周到な準備が必要となる。

 このため、オンライン授業は、いままで授業の質が不明だったのが可視化されるという革命的なことが起きる。これはオンライン授業の最大の利点である。オンライン授業によって“大学の講義はどうあるべきか”に対する教員の答えが公開される。

 講義の動画やスライドなどは公開情報ではないが、親や友人が見ることができ、さらに授業の一部を学生がネットに上げて批評することができるからだ。こうしてオンライン授業は講義の質を高める作用を持つ。

 一方、ポストコロナの大学の授業ではオンライン授業が進むだろう。なぜなら、非同時刻型のオンライン授業では、講義動画や音声付きスライドを1回作っておけば、翌年度もそれを使うことができる。

 このため、それを予習として学生に視聴することを宿題とすれば、対面授業は質疑応答やディスカッションの時間などに使える。これはアクティブ・ラーニングにも繋(つな)がり、教育効果が高くなる。

 ≪新たな教育へのチャンス≫

 非同時刻型のオンライン授業の最大の長所は各学生が自由な時間に、何度でも繰り返し視聴できることだ。疑問があれば授業を中断し、即座にネット検索で深く知ることができる。すなわち、自分の理解の速度で授業を進めることができる。

 一方、同時刻方式のオンライン授業でも自分のPC内に録画ができるので、あとで見直すことができる。私は最近初めて知ったのだがWindows10では画面の録画機能が標準で備わっている。

 これまで教員の速度で授業が進められてきた。しかし、オンライン授業は自分の理解の速度に合わせてさらに深く学習できる。また、病気などで授業を欠席すると、翌週の授業の理解が難しくなるが、オンライン授業ではこれらの欠点も解消する。教員も学会出張などで講義を休講にすることがなくなる。

 これらのメリットは大学教育に革命的なパラダイムシフトをもたらす可能性があると思う。現在のこの苦しいプロセスを新たな教育の始まりとして捉え、秋学期や来年度の授業に活用できるかどうかが大きな分かれ目になる。大学当局もこれを学生と教員の質の向上に資する機会と捉え、積極的な支援を行うチャンスである。大学も教員も学生もポストコロナで大きな格差がつく可能性は大きい。(みき みつのり)

※※※引用、以上※※※

 

野崎章
 

点数競争に追われる環境

追求し学ぶことの楽しさを学ぶ教育が必要なのではないでしょうか。

以下、(リンク)より転載。
********************************
不登校の原因に競争を強制されるという背景が存在します。

ようするに、テストだなんだと言われて周囲の同級生などと比べられることです。

こうした環境に学校に通っている児童生徒らは望まなくても移らなければならないことは誰でも分かると思います。

そして、こうした点数競争が激化する中学生以降などは特に不登校が増える傾向にあると言われています。

高校受験などを控えていく中で、中間テストだ期末テストだ通知表だと騒ぐ大人や同級生が増えるからです。

いい点をとれる人が優等生でテストの点が悪ければ劣等生と呼ばれる風潮がある政府の学校で、そうした競争なんて望んでいない人は多いのです。

しかし、教師も教師で学校に来なくていいよなどとはまず言わないですし、言えないのでとりあえず学校に来なさいとしか言えません。

しかし、成績が良い学生らはまだしもテストの点や通知表の成績が悪い学生たちはもう学校に行きたいなどと思わなくなるものです。

高校受験でもロクにいい学校なんて入ることなどできないということが当人たちも分かりきってしまっているからです。

■本来勉強とは楽しむためにあるはず

学校の競争レールに乗せられることを嫌う人がいても私は別におかしいとは思いません。

過去の私もそうでしたし、今思い返しても本当にバカバカしかったと思えます。

競争すればいい学校に進学できて、いい会社に入れば将来は安泰・お金持ちになれるという幻想を植え付けて学校は子供を競争させてきたのかもしれません。

ただ、教師だって人生のすべてを知っているわけがありません。

狭い世界しか知らない人間も本当に多いですし、何よりも学習することというのは本来は当人が楽しいからするべきことのはずです。

新しいことを発見し、今の自分に必要な技術の習得などに生かすために学ぶなど、目的を達成するために学ぼうという意欲が人には本来備わっているものです。

しかし、学校ではただ役に立たないようなことでもとりあえず受けろとしか言われないものです。

テストでいい点をとれ

いい学校に入れ

いい会社に入れるから

このように、競争をして勝ち上がれとしか言われないのが今の学校教育なのです。

しかし、何度も言うように今の時代では大企業・会社であってもいつ倒産するかなんて誰にも分かりません。

それに、いい会社に入れと言っている教師自体に会社勤めの経験が無いなどということも珍しくないものです。

社会経験などほとんど無い人が、結局はみんなと同じ人生を歩みなさいとしか言えない現実があるのです。

周囲の人間との競争のためにわけのわからない勉強をやらされて、点数競争で勝つこと以外の選択肢を教えられない学生が、疲れて休みたくなるのはおかしいことでしょうか?

自分の人生の目的や目標・本当の願望などを見つける時間などを今の政府の学校が子供や家庭から奪い取っているように思えるのは私だけではないはずです。

何のために自分は学校に行かなければいけないのか?
本当に学校の勉強が役に立っているのか?
学校にいて将来の目的目標が見つかるのか?
学校に費やす時間は意味があるのか?

こうした疑問を抱く児童生徒らが不登校という選択をするとしても、私はべつにおかしいことだとは少しも思いません。

競争したところで有益な結果など得られないと思う人もいて当然ですし、人生の時間をそんなことに費やしたくない人も存在するのです。

教育の主人公とは本来あくまでも当事者であって教師たちではありません。

 

植田正治
 

学び、遊びの場は「異年齢混合」が不可欠 ~ 人類史の99%で、子どもたちは異年齢混合の場で意欲を高め能力を獲得してきた

異年齢が混合する学び、遊びの場は、小さな子どもたちには、自分だけでは難しすぎる活動に取り組む意欲を高め、より高い能力を獲得していくことを促す。
一方、年長の子どもたちにとっても、リーダーシップの訓練になるだけではなく、自分だけでするときよりもはるかに創造的に課題に取り組む意欲を高め、より深い概念の理解を促す。

「遊びが学びに欠かせないわけ(ピーター・グレイ著)」より引用。
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◆異年齢混合~教育機関の秘密兵器
サドベリー・バレー・スクールのビジョンをもったリーダーのダニエル・グリーン・バークは、「異年齢の混合」こそが学校という教育機関が成功するための「秘密兵器」だと長年主張し続けています。<中略>
狩猟採集民の社会を調査している文化人類学者たちは、子どもの自己教育に欠かせないのが異年齢の混合だと主張していました。
年齢の大きな違いがある子どもたちが自由に混ざり合うことが、子どもたちが主体的に自分を教育するのに欠かせない大切な鍵です。<中略>

歴史的な観点、および進化論的な観点から見ると、子どもたちを年齢によって分けるのは、異常なことです。<中略>
狩猟採集民の集団は小さかったし、出産の間隔が開いていたので、子どもたちは、自分の年齢に近い遊び友だちは1人か2人ぐらいしかいませんでした。このような集団で一緒に遊んだり、探検したりしていた典型なグループは、4~12歳まで、あるいは7歳から17歳までの5~7人です。
これは、人類の長い歴史の99%の期間で少人数の異年齢混合の遊び方をしていたことを意味します。

◆年少の子どもたちにとっての異年齢混合の価値
異年齢混合のグループで、年少の子どもたちは、自分だけでやったり、他の同じ年齢の子たちだけでは複雑すぎたり、難しすぎたり、危なすぎたりする活動に取り組み、そこから学ぶことができます。また、年長の子たちの複雑な活動を見たり、話しているところを聞いたりすることだけでも学べます。<中略>

より従来型の学校における実験的な異年齢混合の試みも、読み・書きのスキルを促進する証拠を提供してくれています。
ジェイムズ・クリスティーとサンドラ・ストーンが行った研究では、2年間にわたって教室の中の幼稚園児の行動を比較しました。最初の年は、幼稚園児と小学校1年生と2年生の異学年の混合で行われました。2年目は、同じ教室と同じ教師で、幼稚園児だけを教えました。教室には2年間同じ遊び道具が置かれて、研究者たちは自由な遊びの時間に子どもたちがどんな活動をしていたのか動画で記録しました。異学年混合のとき、幼稚園児は少なくとも1人、ほとんどの場合は2人以上の1年生や2年生と遊んでいました。結果的に、年長の子どもたちに促される形で読み・書きが必要な遊びをしていました。
一人ひとりの生徒の結果は、同じ学年だけで遊んでいたときと比べて、異学年の子どもと遊んでいたときは、4倍の読む活動、6倍の書く活動に取り組んでいました。<中略>

伝統的な社会において、明確に教えるという行為はほとんど存在しません。そうした社会の子どもたちは、よりスキルをもった他者の中に自分が主体的に参加する形でスキルを練習します。それをする過程で、言葉による説明があるかもしれません。でも、子どもたちは自分たちの社会で大切な活動やスキルを、最初は年長者を観察したり、話をしたりするのを聞くことによって学びます。<後略>

◆年長の子どもたちにとっての自由な異年齢混合の価値
異年齢混合の利点は、年少者だけでなく、年長者にもあります。
年少の子どもたちと交わることで、年長の者はリーダーシップや愛情を込めた世話などを練習し、(弟や妹のいない者にとっては特に重要な)関係の中で、成熟した者の役割を体験する機会を得ます。

年長者は、年少者に教えることで、より深い概念の理解も得られます。それは自分が知っていることと、知らないことを考えることにもなります。年長者が年少者に、年少者だけで取り組むときよりもはるかに複雑で洗練された活動に取り組むことを促したように、年少者は年長者に、自分だけでするときよりもはるかに創造的に課題に取り組むことを促します。<中略>

年長の子が、年少者にある概念を説明するとき、それは、自分の理解の曖昧な部分(や、あまり考えないでしていたこと)を明らかにすることに役に立ちます。
たとえば、人形ごっこをしている最中に、8歳のの女の子が2歳の妹に、赤ちゃんのお風呂の入れ方を順に追って説明するとき、各ステップを言葉にすることで、はじめて順をおって考えるということをしていたかもしれません。同じように、遊びの中で読むことや計算の仕方について説明しようとするとき、まずは音声的、ないし数値的な概念を自分自身で明らかにした上で、年少者の質問に答えることになるでしょう。<中略>

年少の子たちにとって、年長の子を見ることでより発展的な活動に取り組む気にさせられるように、年長の子たちは、年少の子たちを見ることでより創造的/想像的な活動に取り組む気にさせられます。<中略>


自由な異年齢の混合が、小さな子どもたちに、自分だけでは難しすぎる活動に取り組ませ、学べること、年長者を見たり、聞いたりすることによって学び、触発されること、より多くのケア(気づかい)と感情的なサポートを受けることなどを、どのように可能にするかを見てきました。
一方で、自由な異年齢混合が、年長の子どもたちに、世話をしたり、リーダーシップのスキルや能力を練習したり、身につけること、教えることを通して学ぶこと、自分だけではできないより遊び心をもって、創造的かつ芸術的な活動に取り組むことなどを、どのように可能にするかを見てきました。
学校やその他の場で、子どもたちを年齢によって分けてしまうと、私たちはこうしたすべてのパワフルな学びの機会を彼らから奪ってしまうのです。

 

 
麻丘東出
 

お母さんは勉強を教えない方がいい

こんばんは☆

小学1年生の息子が、登校日という形で学校に行き始めました。

どうだった?と聞くと、「つまらんかった~。ぼ~っと椅子に座ってなあかんねんでー」と。
遊びしかしてこなかった子どもにとっては、じっと机に座って話を聞くなんて、「なんで~?」って感じなんでしょう。

そんな子どもに自粛の間の自主学習(宿題)をさせるなんて絶対無理~><と思っちゃったのですが、逆に、遅れないように私が家で子どもの学習を見てあげなくちゃ!と焦ってしまうお母さんも多いそうです。その結果親子関係がぎくしゃく・・・。

本来の学びとは何でしょうか?

続きはこちら♪⇒リンク

 

こんばんは☆

小学1年生の息子が、登校日という形で学校に行き始めました。

どうだった?と聞くと、「つまらんかった~。ぼ~っと椅子に座ってなあかんねんでー」と。
遊びしかしてこなかった子どもにとっては、じっと机に座って話を聞くなんて、「なんで~?」って感じなんでしょう。

そんな子どもに自粛の間の自主学習(宿題)をさせるなんて絶対無理~><と思っちゃったのですが、逆に、遅れないように私が家で子どもの学習を見てあげなくちゃ!と焦ってしまうお母さんも多いそうです。その結果親子関係がぎくしゃく・・・。

本来の学びとは何でしょうか?

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女の職場話

 
 

「遊びの時間が足りない子」の結構残念な行く末~子どもでいられる時間の重要な意味と意義~

以下(リンク)引用
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ノーベル賞受賞者ががらくた置き場でしていたこと
子どもの感情を整えるのに役立つ重要な外部の要因として、人生にどのくらいの「スペース(余地)」を作ってやるか、がある。子どもには、宿題やさまざまな活動で分刻みの予定に追われてすべての時間を奪われることなく、「子どもでいられる時間」が絶対に必要だ。

たいていの場合、子どもは友人関係や自発的な遊び、自由時間を通じて感情を整えるスキルを発達させる。そういう経験のなかで、好奇心や想像力を豊かにする機会を得る。

予定を詰め込みすぎなければ、家族や友人と過ごす時間が増えて、人間関係をめぐる大切なことも学べる。退屈だって、成長と学びの重要なきっかけになる。親は子どもの学業をひどく心配するが、夏休み中お決まりの「暇だなあ」という不平が聞こえたら、この天才たちのことを思い出してほしい。

ノーベル賞を受賞した物理学者リチャード・ファインマンについて、14歳のころ彼の友人だった女性から、素晴らしい話を聞いた。彼に知恵を借りる機会があったとき、女性は「どうしてそんなに頭がよくなったの?」と尋ねた。

ファインマンは「単純な話だ」と答えた。4歳のころから、両親は基本的にリチャードを家の外に締め出していた。家の裏は、がらくた置き場だった。幼いファインマンは、捨てられた機械やモーターをいじくり回し、ついには時計を修理し始めた。完全な退屈さと、することを見つける必要性が、ありとあらゆる思考の挑戦と知能の発達につながり、ついにはこの数十年で指折りの優秀な頭脳を生み出した。

わたしたちは、子どもを家の外に締め出してがらくた置き場で好きにさせることには賛成しないし、そうすればノーベル賞につながると保証もしない。しかし、世界と自分自身を発見するための十分なスペースと自由時間を子どもに与えることは、強く勧めたい。

これは、NASAのジェット推進研究所の幹部が、採用方法を変える必要を訴えていることと一致する。以前は、国で最高の学校を最高の成績で卒業したいわゆるエリートを採用することに重点が置かれていたが、近年、そういう若者の多くが必ずしも問題解決を得意としていないことがわかってきた。

彼らは学問のシステムに熟達することを学んだので、成績優秀のしるしである「ごほうびシール」をたくさん獲得している。しかし、〝枠内に色を塗る〟ことは、むずかしい状況を解決する独創的でユニークな方法の発見には必ずしもつながらなかった。

●自由な遊びは「絶滅」しかけている
そこでこれらの機関は、採用の過程で、小児期と思春期に手を使ってユニークな遊びや作業をした経歴を持つ卒業生の獲得を優先し始めた。子どものときにものを作り、遊んだ経歴に特徴のある人が、問題解決をいちばん得意とする人たちだった。

以上のことからわかるように、子どもの生活にバランスを作るもう1つの重要な方法は、子どもの時間を確保して、昔ながらの自由な遊びの機会をとにかくたくさん与えてやることだ。

子どもには、遊びや試みや失敗を通じて、探検や発見をし、重要な感情的、社会的、知的スキルを発達させる時間を与えてあげよう。分刻みの予定を抱えていては、子どもはそういう機会を逃してしまう。

しかし今、多くの子どもにとって、自由な遊びは絶滅しかけていると言っても過言ではない。家では、遊びの時間は、スケジュールに基づく活動、習いごと、宿題で埋めつくされている。

幼稚園や学校では、学科の勉強がますます早期に始まり、テストでよい成績を取ることに焦点を当てた授業を増やし(座っている時間を長くし)、タワー作り、鬼ごっこ、お店屋さんごっこなどをする「遊びの時間」がどんどん減っている。ほかにも現代的な社会の力が、遊びの領域を侵害している。テレビやネット、ゲームなどが、子どもの生活と心のなかで幅をきかせてきたからだ。

習いごとや勉強が、有害なわけではない。しかし、それが遊びとどんどん置き換わっていくと、本当の問題が現れる。遊びは、人間や他の哺乳類の適切な発達に、なくてはならないものだからだ。遊びたいという欲求と衝動は、根深い原始的な哺乳類の衝動で、生存や仲間とのつながりへの本能的な衝動と同じく、脳の本能的な部分に関わっているからだ。

●「ただ遊ぶ」ことの重要性
精神科医で「遊び」の研究者でもあるスチュアート・ブラウンによると、死刑囚監房にいる殺人犯たちの小児期には2つの共通点があるそうだ。1つは彼らがなんらかの形で虐待されていたこと、そしてもう1つは、子どもらしく、遊ばせてもらえなかったことだ。

この研究は、小児期をピアノの稽古や科学キャンプ、学習塾などの時間ばかりに費やすのではなく、子どもが子どもらしく「ただ遊ぶ」ことの重要性を指摘している。

音楽や科学や学業はもちろん大切だし、テレビやネットを見たりすること、プログラミングをする時間にも意味がある。当たり前だが、わたしたちは子どもが技能を習得することに反対してはいない。特別な才能への深い情熱があるなら、その情熱を追いかけるべきだ。

しかし、だ。想像したり、好奇心を働かせたり、単純に遊んだりする機会を奪ってはいけない。それらはすべて、子どもが成長し、発達し、自分を見つけるのに役立つのだから。

こんなふうに考えてほしい。自由な遊びは、「自己肯定感を育てる活動」と言える。自由な遊びは、体系化されたスポーツとはまったくことなる。どちらにも、子どもの生活のなかで役割がある。運動競技では、一方のチームが勝ってもう一方が負けるというルールと共通の枠組があり、善悪を判断する感覚が身につく。自由な遊びの時間を持たせると、子どもは文字どおり、自由に自分の想像力を探れるのだ。

 

 
真鍋一郎
 

学び、遊びの場は「異年齢混合」が不可欠 ~ 人類史の99%で、子どもたちは異年齢混合の場で意欲を高め能力を獲得してきた

異年齢が混合する学び、遊びの場は、小さな子どもたちには、自分だけでは難しすぎる活動に取り組む意欲を高め、より高い能力を獲得していくことを促す。
一方、年長の子どもたちにとっても、リーダーシップの訓練になるだけではなく、自分だけでするときよりもはるかに創造的に課題に取り組む意欲を高め、より深い概念の理解を促す。

「遊びが学びに欠かせないわけ(ピーター・グレイ著)」より引用。
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◆異年齢混合~教育機関の秘密兵器
サドベリー・バレー・スクールのビジョンをもったリーダーのダニエル・グリーン・バークは、「異年齢の混合」こそが学校という教育機関が成功するための「秘密兵器」だと長年主張し続けています。<中略>
狩猟採集民の社会を調査している文化人類学者たちは、子どもの自己教育に欠かせないのが異年齢の混合だと主張していました。
年齢の大きな違いがある子どもたちが自由に混ざり合うことが、子どもたちが主体的に自分を教育するのに欠かせない大切な鍵です。<中略>

歴史的な観点、および進化論的な観点から見ると、子どもたちを年齢によって分けるのは、異常なことです。<中略>
狩猟採集民の集団は小さかったし、出産の間隔が開いていたので、子どもたちは、自分の年齢に近い遊び友だちは1人か2人ぐらいしかいませんでした。このような集団で一緒に遊んだり、探検したりしていた典型なグループは、4~12歳まで、あるいは7歳から17歳までの5~7人です。
これは、人類の長い歴史の99%の期間で少人数の異年齢混合の遊び方をしていたことを意味します。

◆年少の子どもたちにとっての異年齢混合の価値
異年齢混合のグループで、年少の子どもたちは、自分だけでやったり、他の同じ年齢の子たちだけでは複雑すぎたり、難しすぎたり、危なすぎたりする活動に取り組み、そこから学ぶことができます。また、年長の子たちの複雑な活動を見たり、話しているところを聞いたりすることだけでも学べます。<中略>

より従来型の学校における実験的な異年齢混合の試みも、読み・書きのスキルを促進する証拠を提供してくれています。
ジェイムズ・クリスティーとサンドラ・ストーンが行った研究では、2年間にわたって教室の中の幼稚園児の行動を比較しました。最初の年は、幼稚園児と小学校1年生と2年生の異学年の混合で行われました。2年目は、同じ教室と同じ教師で、幼稚園児だけを教えました。教室には2年間同じ遊び道具が置かれて、研究者たちは自由な遊びの時間に子どもたちがどんな活動をしていたのか動画で記録しました。異学年混合のとき、幼稚園児は少なくとも1人、ほとんどの場合は2人以上の1年生や2年生と遊んでいました。結果的に、年長の子どもたちに促される形で読み・書きが必要な遊びをしていました。
一人ひとりの生徒の結果は、同じ学年だけで遊んでいたときと比べて、異学年の子どもと遊んでいたときは、4倍の読む活動、6倍の書く活動に取り組んでいました。<中略>

伝統的な社会において、明確に教えるという行為はほとんど存在しません。そうした社会の子どもたちは、よりスキルをもった他者の中に自分が主体的に参加する形でスキルを練習します。それをする過程で、言葉による説明があるかもしれません。でも、子どもたちは自分たちの社会で大切な活動やスキルを、最初は年長者を観察したり、話をしたりするのを聞くことによって学びます。<後略>

◆年長の子どもたちにとっての自由な異年齢混合の価値
異年齢混合の利点は、年少者だけでなく、年長者にもあります。
年少の子どもたちと交わることで、年長の者はリーダーシップや愛情を込めた世話などを練習し、(弟や妹のいない者にとっては特に重要な)関係の中で、成熟した者の役割を体験する機会を得ます。

年長者は、年少者に教えることで、より深い概念の理解も得られます。それは自分が知っていることと、知らないことを考えることにもなります。年長者が年少者に、年少者だけで取り組むときよりもはるかに複雑で洗練された活動に取り組むことを促したように、年少者は年長者に、自分だけでするときよりもはるかに創造的に課題に取り組むことを促します。<中略>

年長の子が、年少者にある概念を説明するとき、それは、自分の理解の曖昧な部分(や、あまり考えないでしていたこと)を明らかにすることに役に立ちます。
たとえば、人形ごっこをしている最中に、8歳のの女の子が2歳の妹に、赤ちゃんのお風呂の入れ方を順に追って説明するとき、各ステップを言葉にすることで、はじめて順をおって考えるということをしていたかもしれません。同じように、遊びの中で読むことや計算の仕方について説明しようとするとき、まずは音声的、ないし数値的な概念を自分自身で明らかにした上で、年少者の質問に答えることになるでしょう。<中略>

年少の子たちにとって、年長の子を見ることでより発展的な活動に取り組む気にさせられるように、年長の子たちは、年少の子たちを見ることでより創造的/想像的な活動に取り組む気にさせられます。<中略>


自由な異年齢の混合が、小さな子どもたちに、自分だけでは難しすぎる活動に取り組ませ、学べること、年長者を見たり、聞いたりすることによって学び、触発されること、より多くのケア(気づかい)と感情的なサポートを受けることなどを、どのように可能にするかを見てきました。
一方で、自由な異年齢混合が、年長の子どもたちに、世話をしたり、リーダーシップのスキルや能力を練習したり、身につけること、教えることを通して学ぶこと、自分だけではできないより遊び心をもって、創造的かつ芸術的な活動に取り組むことなどを、どのように可能にするかを見てきました。
学校やその他の場で、子どもたちを年齢によって分けてしまうと、私たちはこうしたすべてのパワフルな学びの機会を彼らから奪ってしまうのです。

お母さんは勉強を教えない方がいい

こんばんは☆

小学1年生の息子が、登校日という形で学校に行き始めました。

どうだった?と聞くと、「つまらんかった~。ぼ~っと椅子に座ってなあかんねんでー」と。
遊びしかしてこなかった子どもにとっては、じっと机に座って話を聞くなんて、「なんで~?」って感じなんでしょう。

そんな子どもに自粛の間の自主学習(宿題)をさせるなんて絶対無理~><と思っちゃったのですが、逆に、遅れないように私が家で子どもの学習を見てあげなくちゃ!と焦ってしまうお母さんも多いそうです。その結果親子関係がぎくしゃく・・・。

本来の学びとは何でしょうか?

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