自我ではなく共認こそが原点

 >自己嫌悪までいかなくても、意識の深いところにある「自分はダメだ」という潜在的な意識も、同じ構造を持つ。そもそも現実に対して不可能視があるから、「ダメであろう自分」を「理想の自分」が絶えず攻撃し続ける構造を持つ。そうなると、「現実の場面でどうするか」などに意識は向かわず、如何に「理想の自分」を守るか、に意識が向かう。結局、周りの人間は「どうでもよく」、「自分の事しか考えていない」ことになってしまう。(81144

 自己嫌悪と対極にあるのが、自己賛美(ナルシズム)です。後者が「自分のことしか考えない」「自分のことしか愛せない」結果だと言われれば、誰もがすぐさま納得するでしょうが、自己嫌悪も出所が同じという指摘に対しては、改めて考えさせられました

 これまでを自分自身を振り返って、自己嫌悪に陥った経験は幾度となくあります。しかし、そのような自己嫌悪が、「自分のことしか考えていない」という自我思考からくるものだとは、正直言って考えたことはありませんでした。しかし、内藤さんが指摘されたことを、深く考えてみると、確かに思い当たることは多々あります。中でもそれが、「理想の自分を守る」という意識に向かった結果だという指摘は、まさにそのとおりだと思いました。

 戦後の民主主義教育の洗礼を受けた我々の世代にとっては、子供の頃から「自我の確立」が何よりも重要だと教えられてきました。そうして長い間、「個人が原点である」という近代思想の旧観念が絶対であることを信じてきました。しかし、「実現論」に出会って旧観念がいかに現実否定の倒錯観念であるかが分かりました。今改めて「実現論」を読んでみると、


>これらの欺瞞観念によって、集団共認と深く同化した主体や、集団共認と同化しているが故に得られる全的な充足(全的な自在さ)、あるいは強い集団収束によって得られる応望充足(それは崇高な自己犠牲とも言える)の全てが、反集団を旨とする自我に基づく権利要求に換骨奪胎されて終う。しかし、それらは全て人々を欺いて共認を形成する為の欺瞞観念なので、彼らは決して醜い自我の現実には触れないで、美化された幻想観念しか見せないし、見ようともしない。従って、彼らが「個人」とか、「自由」とか、「市場」とか言う時、それは常に現実ではなく、美化された欺瞞観念を指すことになる。つまり、彼らには現実そのものを直視することができない。もし現実を直視すれば、その欺瞞思想は忽ち瓦解して終う。従って、当然のことながら実現されたのは醜い自我(エゴ)の現実のほうだけで、現実離れした、その奇麗事の欺瞞観念が言葉通りに実現されたことは、一度もない。(実現論2_8_06)

 そうして内藤さんの仰ることを重ねると、自己嫌悪は旧観念の不可能視化が根底にあり、美化された幻想観念から来る「理想の自分」を「自分で守る」ことなのだということがよく分かりました。そうしてこのような自我回路の思考にまだ多くの人々は囚われています。私権の終焉を迎えた今、新概念はそのような「自我が原点」ではなく、「共認こそが原点」であることを気づかせてくれました。自己嫌悪に限らず多くの現代人が抱える悩みも、自我回路から共認回路へのパラダイム転換が解決への糸口になるのだと思います。

大木康