体験からいじめを考察する

いじめしたことがあります。されたこともあります。
「いじめ」をしてしまうのは、何でなのか?
小学校時代の記憶にまで遡りますが、かつて抱いていた感覚というのは『面白い』というものでした。集団遊び・一人遊び・テレビゲームいろいろ遊ぶ課題っていうのは、周りにあふれていたけれども、そのいずれもが教室という閉鎖された空間内では行ないようにない代物ばかり。「教室」というのは、勉強する場であり遊ぶ場ではない、という空間がもたらす意識の固定化が行なわれていたように思います。

>まず近代社会の都市空間というのはすべて何らかの機能を設定(限定)されて設計された空間(場)だといえます(会社は仕事・生産の場、学校は勉強する場、家は休息と家族団欒の場、公園は遊ぶ場、映画館は娯楽の場、etc)。当然、それらのハードは人々の意識にも影響する。しかし、あくまで旧いパラダイムに則って機能分化された場であるため、現在の実感や意識とのズレが大きくなり、それら既存の場は居心地の悪いものになってきているように思います(路上=脱近代的空間)。(70499

つまり、教室には「勉強」以外の課題がないということ。しかもその「勉強」にしてもトップダウン型の「おまえらよーく聞け」的な授業では非充足状態に陥るのは必然。非充足状態からの充足可能性としての「いじめ」ととらえると辻褄が合うのではないか。

いじめが面白いと感じた理由は以下の一点です。
「反応があるから」

歪んだ形の共認充足をみんなで味わっていたのかもしれない。
そして「いじめ」をされる側の意識としては、私権の衰弱に伴った仲間絶対の圧力場で「いじめ」に対して無反応でいることは許されない。いじめられてもいじめられても離れることのできない仲間圧力(仲間引力)。その中で、どうしても仲間達から離れることのできない「いじめ」をされる側の意識が「いじめ」を深刻化させていった。

若者を「期待封鎖」に追い込んだ「いじめ」。
その罪は重罪。
される側・する側に大きな心の損傷を刻む「いじめ」。
その罪は重罪。

原因構造の更なる追求とこれからの課題・方針も考えていきたいと思う。

ゲン