判断基準を「相手(みんな)」へ転換すれば個人主義から脱却できる

小さい頃、誰もが言われた「自分がされていやなことは、他人にしちゃダメ。」という一見相手発の規範は、個人主義者からみれば自分主義との違いとして主張する部分(公共性を考慮している部分)です。

もともとこの規範は、村落共同体があった頃に作られたもので、その頃はみんなと自分の価値観や規範が同じため、「自分のされたくないことは、みんなもされたくない。」と戒めることでみんな期待に基づく規範として成立していました。

しかし、村落共同体が解体され個人主義が共認されると、この「されていやかどうか」の判断基準はあくまで「自分」であり、逆に自分がされてもいいと思えれば(思い込めれば)、相手にしてもいいことになります。
どちらにしても問題なのは、いくら相手(みんな)といっても、その判断基準がみんなに共認されてない限り最終的には「自分」にしかなり得ないところです。

その新しい判断基準は何か?
それは、「相手(みんな)」なのだと思います。つまり、最大の充足源は相手の期待に応えることにあり、相手が充足することでそれが結果的に自分の充足にもつながる。それが活力源となるとなるのです。そこには、私益の獲得で得られる自分充足より、心のつながりで得られる共認充足があるのです。

「みんながして欲しいことを自分がする」それが充足源だし活力源になるのではないでしょうか。
鈴木邦彦