「自己実現できない→さらに要求する」という悪循環の個人主義

>確かに自己実現(や自分探し、更にその大元にある「自分」観念)は 今尚多くの人が囚われている最後の旧観念かも知れません。それゆえに根強い、ということも出来ますが、本来の自分の主体は「私権」や「自我」。それらの実体が衰弱しているわけですから、観念次元でも引導を渡す必要があると思います。(51407 北村浩司さん)

自己実現には二つの立場があると思う。一つは序列原理に忠実で金権や地位を目指してまい進するタイプ。そしてもう一つは序列原理の存在に無頓着で単に自分自身にとって住みよい縄張りを獲得しようとまい進するタイプである。どちらも私権の追及という意味では同じだが社会を対象としているか対象としていないかについては、大きな違いがあると思う。

序列原理を明確に対象化し社会の閉塞についても判断できる前者のタイプは、序列原理の特権階級を目指すのだから序列原理のシステム構築をする側に立っている。一方、序列原理や社会なんかどうでも良いと思っている後者は個人主義者であり、卑劣なハイエナ(動物のハイエナの役割を言っているのではありません)のようなもの。自分発のごく小さな充足をモットーとしている点で、彼の場合は社会が何システムであるかどうかは二の次で、どのシステムになろうともシステムと端末は断線したままなのではないだろうか。そして断線していたほうが楽だよと自らの生き方を正当化しその楽なことを根拠に旧観念をどんどん広げて行ってしまう。

考えてみれば要求需要によって国家財政が膨大な赤字になっていることは、システムと繋がっていない個人主義者でなければ見逃すことはできないはずである。しかし現実に赤字の問題でさえ無関係さを主張でき要求需要をさらに大きくしようというのは、個人主義者であることの証明にもなっていると思われる。

社会の不全には目を閉ざし、社会の成果だけをもらえるだけもらっておこうという考えの個人主義は、みんなの認識からズレて自己実現できないばかりか、自己実現できないからさらに要求するという悪循環の真犯人だろう。まさに、「閉塞の元凶は、個人主義」である。

佐藤英幸