“個性”は自分のためにあるんじゃない

先日のなんでや劇場「自分って何?生きるって何?」で、人の成長とは、決して自分一人で成されるのではなく、「同化対象を母親、仲間、社会・・・と広げていくこと」によるという話になった。
その際、「対象と同化すると皆同じになってしまい、個性が無くなっていくようで不安・・・」との意見が出された。

確かに“同化”が、ただ単に周りに合わせるという意味ならば、皆同じになってしまいそうで(特に「個性が大事」と言われ続けた世代にとっては)不安な気になるのもわかるが、実は逆ではないかと思う。

まず、そもそも“同化”という現象は、強弱はあるにせよ外部から与えられる外圧に適応する第一歩として生ずるということ。

例えば、人類も含めあらゆる動物が有する本能機能も、環境の変化(ex.海から陸に上がる)にまず同化(ex.空中から酸素を摂取する必要)した上で、DNA変異を駆使してより適応的な形態を探索した結果、新たな進化の方向性(えら呼吸→肺呼吸)が見出される。現在の動植物が極めて多種多様であり個性に富んでいるのは、こうした環境適応への試行錯誤を繰り返してきた結果にすぎない。(当然、現在見られる形態を遥かに超える数多くの“個性の死”の上に成立している。)

人類の場合は、それが本能変異という長いスパンでなく、共認内容の変更という短スパンにおいて可能であり・・・
まず場の圧力の変化(ex.生存圧力の衰弱→私権の無効化)が皆の潜在思念の変化(ex.自分第一→みんな第一)を引き起こし、その意識にまずは同化した上で、より皆がすっきり共認充足を得られる新たな観念を模索、徐々に収斂してゆく(ex.私権→共認)。

そして、皆が満足できる最適な適用様式を目指して皆が一斉に模索する過程において必然的に“個性”が生ずる。(身近なところでは、どうしたらより皆をすっきり充足させられるか?を日々追求、試行錯誤するなんでや露店の店主達の個性的なことか・・・)

だから、本来“個性”とは、適応のために不可欠な“多様性”と言い換えても良いと思うし、現在のようのに、見せ掛けの個性(単なる違い)ばかり追い求め、本来的な意味において没個性的である状況は、進化適応上極めて危険であると言わざるを得ない。

なぜこのような状況になってしまったかは明らかであり、旧観念(近代思想)を背景とした「自分が大事」「個性第一」一色の誤った教育が、皆の意識を“自分”という内面に封じ込め続ける結果、パラダイ
ム転換に伴う外圧の変化や、潜在思念の変化を看取(=同化)できず、本来の優れた探索⇒適応機能が作動しないがために違いない。

個性とは自分のためにあるのではない。
しっかりと外圧(≒皆の期待)に同化し、皆の役に立とうとする中で育まれていくものなのだ。

越見源