存在基盤を失った個人主義

科学技術(事実認識)の進歩に伴い、私権獲得の可能性が広く開かれた近代黎明期、人々の私権に対する収束力が一気に増していったであろう事は容易に想像できる。それまでの、あらゆる規範は、私権獲得の手枷・足枷になるものだから、とことん規範は蹂躙され解体された。人々が強く収束したのは、まさに市場拡大の可能性(私権獲得可能性)に対してである。細部の問題や追求課題は「合理」という正当化観念によって、ことごとく捨象(切り捨て)されその後それらが様々な問題を引き起こす事になる。

自由競争⇒市場拡大に「個人主義」が果たした役割は大きい。
「自分以外は全て敵」といった、人類の持つ本源性に蓋をし、ひたすら己の欲求(私権欠乏)を肥大化させ正当化するためには、強烈な反規範・反体制のエネルギーをもった思想が必要であったのかもしれない。その大元が「個人主義」であったのではなかろうか。確かに、自由競争を正当化するのに、これほどしっくりくる思想は他に無い。

しかし、歴史を大きく振り返るのであれば、いったい「個人主義」は何を実現したのか?「市場拡大」は何を実現したのか?

歴史上一貫して人類に加わりつづけてきた「生存圧力(貧困の圧力)」を克服した功績は大きい。しかしながら、細部の追求をことごとく捨象してしまったがゆえに生じた、現在顕在化している負の功績も見逃してはならない。財政破綻・環境破壊・精神破壊etc…個人主義に基づく市場拡大がもたらした現在の閉塞状況を、個人主義者たちはどうとらえるのであろう?また、生存圧力をほぼ克服した現在、市場拡大の可能性が殆ど残されていない現在(私権の衰弱の甚だしい現在)、「個人主義」の存在理由はどこにあるのか?また、よくよく考えてみれば、市場の拡大を実現し、貧困を克服したのも、結局は「個人」ではなく「集団」の共認によって実現されてきたのではないか。

現在の日本でどれだけの人が市場拡大の可能性を信じているのであろうか。「年収300万円でも楽しく暮らす!」なんて書籍が売れている事自体「市場の拡大停止」を直観しているのではないか。「個人主義」が拠って立つ「市場拡大可能性」という基盤が崩れつつある現在、「個人主義」の存在理由はもはやなくなったと考えても良いのではないだろうか。

ゲン