「自分の成果」に拘ることの危険性

最近、知人が有名大手IT企業で働き始め、いろいろとその会社の様子を聞くのだが、その企業の話を聞けば聞くほど、「一体成果って何だろう?」と思い始めた。
その会社は、IT企業の多くがそうであるように、一つのプロジェクトに対して、腕の立つSEやプログラマーが集められ、契約制で企業と契約を結び(例えば、私にはこれだけの能力と実績があるから、1月いくらで雇って欲しいと言うように契約を結ぶらしい)、プロジェクトチームが作られる。そこでは、契約制であることから完全な成果主義方針(成果に繋がらなければ契約を切られる=リリースと言うらしい)がとられている。
自分の腕に自身のある人間が集まってくるので、成果は一定上がるらしい。これだけ聞くと問題なさそうだが、問題は集団としての統合にある。

聞いた話の範囲だが、彼らは極めて時間にルーズらしい。
出社時刻が決められているが、殆ど意味をなしていない状況のようだ。
知人は、SEやプログラマーではなく、営業秘書業務の為、遅刻する人間のチェックをし、理由を聞き出すが、(当たり前だが)殆ど言い訳のようなものしかでて来ない。当然遅刻が常態化すれば、重要なミーティングが時間通り行えなくなったり、様々なチーム運営上の問題が噴出する。
また、もう一つの典型的問題として、自分に与えられたプロジェクト内の役割にしか向かわず、周りを見ない点があるようだ。チームとしての成果=みんなの成果と自分の成果が完全に切り離されているのだ。

話を聞いていると、どうも、彼らの意識には、「自分は成果を上げているから問題ない」と言う自己正当化観念が見え隠れする。
 自分は成果を上げている=一生懸命働いているから、遅刻するのも仕方ない。
 周りが成果を上げていなくても、自分は成果を上げているから問題ない。
チームのあらゆる問題は、「自分は成果を上げている」と言う自己正当化観念(自己成果主義)によって生み出されているように思う。

こんな状態では、集団としての統合なんてあったものじゃないし、それぞれの個人レベルでの成果は上がっても、結局全体としての成果に繋がらない。実際、全体としての成果が今一上がらず、集団全体が壁に当たっているようだ。

このような話は、何も知人の企業に限っただけではないと思う。
実際、僕の周りでも似たような話がこの間あった。僕の働いている事務所では、若手が事務所掃除を行うのだが、今年は掃除を行わない若手が数名いた。何度総括しても改善されないので、ついに先日、精神構造を探る徹底的な総括を行ったのだが、やはり彼らの思考の裏には「自分は一生懸命働いている、成果を出している(だから掃除これないのは仕方ない)」と言う正当化観念があった。これは、彼ら掃除をしない若手に限った話ではなく、遅刻が多い人や周りが見えていない、個人プレーの多い人などに同じような傾向があると思う。

これらの事例から考えるに、自分で、「自分の成果」に拘っている状態は、非常に危険だと考えた方が良い。そういう「成果主義」的な思考は、ほぼ間違いなく自己正当化の為に使われている。

成果とは「個人」レベルに切って考えられるものではないのだと思う。
企業の、チームの、集団としてのみんなの「成果」。そこに向かって始めて成果は成果となる。
集団としての期待、みんなの期待がどこにあるか。
それを捉えた上で、その期待に応えようと仕事する、行動する。
そのみんなの期待の先にこそ「成果」があるのであって、個人レベルでの成果=「自分の成果への拘り」のは、全体課題をズリ落ちさせるだけだと思う。

「成果」とは、決して自分で判断するものではない。徹底的に周りに委ねるものなのだ。

西谷文宏