旧観念は、塗り重ねの原理に反している。だから旧観念から新観念へは、塗り重ねではなく、塗り替え。

例えば「恋愛」という観念では現実はうまくいかない。実感とズレる。そこで男女(オスメス)関係について、追求が始まり、生物史まで遡っていくと、人類にとっての「和合」という認識を得る。その方が可能性を感じられるし、潜在思念にしっくりくる。他方、その追求の過程で「恋愛」という観念がいかに間違っているか、閉塞の元凶であるかが明らかにされる。そこで観念が下部意識に合致したものへと「塗り替えられる。」

例えば「自分(自我自己実現)」という観念では現実はうまくいかない。実感とズレる。そこで人間(社会)関係について、追求が始まり、生物史まで遡っていくと、人類にとっての「みんな(共認)」という認識を得る。その方が可能性を感じられるし、潜在思念にしっくりくる。他方、その追求の過程で「自分」という観念がいかに間違っているか、閉塞の元凶であるかが明らかにされる。そこで観念が下部意識に合致したものへと「塗り替えられる。」

違和感をとことん追求し、その間違いを明らかにすることで全否定は可能となるし、(生物の塗り重ねの原理に基づいた)実現基盤を発掘すれば、それへの可能性収束によって、観念は自ずと塗り替えられる。≒「気づき」の感覚だと思います。
参考:21495

匿名希望