ミス大爆発⇒警戒心発の集中力はガタガタ⇒共認圧力発の集中力を形成するには?

少し前の話しになりますが、福知山線脱線事故にしても、耐震偽装にしても、日銀総裁のファンド投資にしても・・・・なんで? と思うほどのミスや不始末が多発する傾向が増大している。しかも、老若を問わず、在り得ないようなレベルのものまで出てくる始末!

その原因は、生存圧力を克服して豊かさが実現されてしまったから、というだけでは不十分だろう。というのも、貧困が消滅し供給者優位から消費者の期待に応える物を作らないと売れない消費者優位の時代に転換したことによって、生産者・供給者にとっては無限課題化し、考えない者は淘汰されるようになったこともあって、確実に外圧は高まっているはずだから・・・。

それなら、なぜ事態はこんなにも悪化する一方なのか?

私権時代は、一見ちゃらんぽらんに振舞っているかに見えたサラリーマンも、心底では緊張感を失えば足元を掬われる・出し抜かれるという「警戒心」が注意力を喚起し事なきを得ていた。人前では鷹揚に構えながらも、水面下では努力を惜しまないようなことを「男の美学」の如く受け止める価値観がそれを後押ししていたようにも思う。
しかし、そんな時代を生きてきた中高年も、今や外圧が高まっているにも拘らず、「自分→みんな」という時代の趨勢ゆえに警戒心を解いてしまうだけなら、無能の極みと化したということだろう。

然らば、「役に立ちたい」という思いのある若者にあっては、内圧も外圧も高まってミスなど起こしそうもないはずなのに、そうならないのは何故か?
それは、親子関係においても仲間関係でも、なんでも許される過保護空間と成り、さらに学校までが「『自己中』の生産に荷担する場と成り果てつつある」ことに由ると云えそうである。

主観的には、「役に立ちたい」といいながら、己の犯したミスが廻りの人達にどれだけ重荷を押し付けていることが分かっていない。相手や周りの人のことまで頭が回らない。ミスを犯しても、呆気羅漢としている。
しかし、このような自己中の極みが、今、世間を騒がせている幾多の人身事故や殺傷事件そのものであると受け止められれば、事の重大さが分かろうというもの。

廻りの人たちに重荷を押し付けて平気でいるのは、「人でなし、人間ではない」という不文律の確立こそが、ミスの歯止めとなり、期待に応える充足へと反転できる契機となろう。
集団内でも社会空間においても、「自己中は人類の敵」という不文律の共認による注意力喚起こそが、破綻状況を突破していく鍵となるのではなかろうか?


小圷敏文