国家も市場も、『必要か否か』という『判断の土俵』の対象になってくる。

>つまり、『必要か否か』という最基底の、それゆえ真っ当でシンプルな『判断の土俵』(=新しい演場の基礎)が出来てくると、国家も市場も全面的にその土俵の上に乗らざるを得なくなり(∵逃げ道はない)、そこでの評価指標=身分やお金は『現実に必要か否か』を表わすモノサシに変質せざるを得なくなる。<(33995

若者の意識は、この『必要か否か』という『判断の土俵』にあるのだろうと何人かの人が投稿されている。

今まで感じていた「不登校」についての疑問も、私の頭の中で次第にすっきりと整理されつつある。というのも、私の弟の3人姉妹みんなが中学校で不登校を経験するにつけ、親の責任や教師の問題があるにしても、親の年代からみた価値意識の中では、本当の理由と言うものが何なのか明確に理解できなかった。

また姉妹を小さい頃から見知っている自分には、不登校になる本人達の性格的な問題さえ見出すことも出来なかった。

社会問題ともなったいじめは、当時若者達の仲間との繋がりを第一価値とする意識構造から、それ以外を排除しようとする排除共認に原因があるという理解であった。そしてそのいじめは、不登校児の原因であろうという分析をしていたように思っていた。

しかし、それだけでは姉妹の言動からして、とても納得できることではなかった。

今回の『必要か否か』という『判断の土俵』という視点から考えてみれば、それは非常にシンプルであると同時に意味深い意識分析になると思う。
彼女達は学校を必要としなかった。ということになるのだろう。
私たち親の年代では、学校が必要か否か考える前に、学校は行かなくてはならないものであった。
ところが、学校そのものの価値を判断するという若者たちは、そういった固定観念を超えていたと解釈できることになる。

もう既に二十歳代になってきた若者たちに、価値意識を判断するということを教えられたことになるのだろう。そしてそのことは、学校教育という場でさえ問い直されるべき対象であるということができるのだ。

橋本正雄