現在の学校はいつのまにか可能性に限界線を引き、学校の決めた道を歩かせている

>学校は行かなければならないものである、必要である、というような思い込みを一端棚上げして、現在直接的には学校に関わっていない人も含め、では何が必要であるかを考えなければならないと思った。そしてそれは、教育問題に真剣に関わるということでもあると思う。(34600柳瀬さん)

本当にそう思います。悩みや進路の相談を受けるたびに、学校に行き着く問題の多さに頭を抱えています。

学校にいろいろな問題があるのに、学校へ行かなければならないという結論が先にあるのですよね。そして学校は評価の決定権を持っている。まさにお役所そのものだと思うのです。

そこでは何が評価されているかというと、一番目にはやはり「成績」なのです。しかも、成績が本当の意味での学力を測っているわけではなく、定められた範囲の記憶力を測っているのですが、会議室でもよく議論されているように、学校で測定されている学力は、認識形成に役立つどころか阻害する方向に作用しているようなのです。

ところが、進学や就職のためには基礎学力は必要だ。ということで、認識形成上の基礎学力とも重なる部分がありますから、むげには全面否定できない。あえてなぜそのようなことを言うかというと、実際、必要な教育要素を教えている教師も数多くいるからです。だからこそ、いい先生、悪い先生を子供たちは見抜いているのだと思うのです。もちろん、もっと大きな欺瞞に全てが包まれているのだから、全面否定するというのであれば、それまでなのですが。

ここで言いたかったのは、人という観点では皆それぞれにがんばっているのだけれども、私権のような大きな風呂敷の中で、窒息しそうな人々の様子を想定しています。

話を元に戻すと、評価の決定権が学校にあるとすれば、その評価の対象となるカリキュラム決定権もまた学校にあります。つまり、子供のための学校というよりは、社会のための学校となっています。比ゆ的には労働者生産工場とでもいえましょうか、最近は起業家を育てるような方向へと変化しているのですが、その目的自体が日本をどのように経済大国へと復権させるか、そして社会のひずみを新しいひずみで部分的に直そうという方向性を感じます。まるで乱視を直すために、角膜に新しい傷を作る手術のようです。

そのうえ、社会のための学校から、学校のための学校にもなっています。先生の職場を保持するためにですね。

カリキュラムの決定権は介護活動、ごみ拾い活動と広がり、なんとか社会との接点を持たせようとしています。教科書のリアリズム化などもそのひとつです。こうして、学校は一見開かれようとしています。

しかし、社会が期待しているのは、そのような意味での学校であろうはずはありません。子供に社会全体を見通す力を与えたい。どの分野にも可能性を開かせたい。と、そのような潜在願望があることをあらためて感じさせられるのです。多くの場合、その期待は小さなうちにあきらめさせられてしまいます。見えない限界線を無意識のうちに作ってしまうような学校は、学校が必要かどうかには言及できませんでしたが、少なくとも今の形の学校ではいけない。と感じています。