何を教えればいいか分からないという学校側の自覚

学校が閉鎖的で不透明であるような印象は、学校や教育にさほど関心がなくとも世間一般に広がっているような感がありますが、最近学校自体も限界を感じてかそれを認めざるを得なくなってきている、または自覚的であるようです。

 教員採用にあたっての社会人枠の設立や(教員の資格は取得している必要がある)、校長の一般公募などに、その流れを感じます。

 また、教師が研修として一般企業で短期間働くといった試みも見受けられます。これなどは奇異な感じを受けますが、大真面目にそれを行うあたりに学校側としても教師自身も、一般社会とのズレに危機感なり、違和感を抱いている事の現れであるとは感じるのです。

 このような流れが顕在化し始めているのは、学歴だけでは生きられなくなってきた社会で教え子達はどう生きていくのか、教えている事はこれでいいのか、ということに自信が持てない。何を教えるべきかが今までどおり社会と切り離されつづけた場ではとても見出せない。という学校側の限界や不安の無意識裡の自覚の顕れでもあり、またSOSでもあるでしょう。

 それに対して、ちゃんとしろ、などと要求を突きつけているだけでは何ら解決するわけもありません。就学児童をもつ親を始め、地域の住民、社会人それぞれが既存の立場や枠を超え、一丸となって答えを見つけ出す機が熟した、というよりもはやそうせざるを得ない段階に至っています。

 その際、より真剣にその取り組みが行われれば行われるほど、人の営みを貫く、この場に飛び交うような統合的な認識、それを形成する場、多くのひとを通した広い視点の必要性が明確になるように思います。

柳瀬尚弘