評価されない今の「先生」

「先生」という専門職の現状のありかたの問題として、生徒の評価をする立場にはあるが、社会の評価圧力に晒されることが過小であるという事があるようにおもいます。専門職であることを問題にされているのも、世間から隔絶しつつも機構に保護されているようなその閉鎖性の点なのでしょう。

 佐藤さんの35852にある「公務員」という言葉がとても馴染んでイメージしやすかったけれども、今の「先生」の多くが社会機構の中で、やはり国に認められた者としての権力を背後に、閉じていても存在できてしまっている点は否めません。

 評価に晒される事がない、閉じた状態というのは、社会から期待をされない、受け止めない状態でもあり、実態上それほど活力もでないのではないかと単純に感じます。これを教えて欲しい、という強烈な期待などは幼い生徒から明確にでてくることも考えにくいですし。

 以前開かれた学校の為の評議会のことを目にした事があります。活動としては地域住民なども含む評議員が授業参観をして、それを評価をしたり、発展形としては先生も含めた話し合いの場をもって意見を交わしたりというものでした。

 当初、先生としては評価されるという不安も大きく、素人にまともな評価など出来ないだろう、といった懐疑的な声も多かったようです。しかし、住民からの苦言も含めた話し合いを重ねるうちに、授業の狙い等を熱心に説明する先生が増えたなどの変化が顕れます。こうした熱意の変化などは、やはり役割に対する期待を肌身で感じてこそのものかと思うのです。

 住民からは当初責任の押し付けや要求主義的な批判一辺倒だったものが、徐々に自分達の学校という意識が芽生えて建設的な議論ができるようになったという住民側の変化などもみられました。

 あくまで現行の制度のなかでのものですが、その小さな変化には多くの人が関わる、開かれるという事に、方向性としては可能性や、なにか澱みが薄らぐ安心感のようなものを感じます。もちろん、現状のままでは根本解決にはなりませんが。

 現状の社会システムを超え誰もが社会のことを自ら考えるようになれば、事例のような話し合いの場は、何を教えることが必要かということも含めた、もっと誰もが深く教育にも関わりあう場として当たり前の様に存在するものかとも思えます。

 考えてみれば、公務員というものはその役割が公的であることからも、本当は皆に期待されて担うもので、決して自らの安定の為に試験などで権力構造の一端に安住の地を確保するものではないでしょう。

 様々な人が、推されて先生の役割を担うように変わっていくのが自然かもしれません。

柳瀬尚弘