「気付き」や「発見」を得るための勉強

> 新しい認識を巡る期待と応望の信頼関係であれば、互いに自ずと『認識の必要』を共感し、認識課題を共有した認識仲間となる。そこまでいけば、次は自ずと『勉強の必要』の共認に至るだろう。(40914岡田さん)

小~中学生ぐらいまで、どちらかというと「勉強」は嫌いな方ではありませんでした。その頃は、良い高校に行くためとか、将来望む仕事に就くためという風に勉強を捉えたことはなく、単純に物事を識る、ということが「気付き」であり「発見」(39180山崎さん)でした。

でも、高校や大学に入り、勉強が将来の目標を達成するための手段だと感じ始めた途端、その魅力は急速に色褪せていきました。そこで設定し得た「目標」が、私権フレームへの適応でしかなかったからです。

「勉強」を私権の枠内で考える限り、プラスイメージは湧いてきそうにありません。しかし、それが社会不全に応える「気付き」や「発見」を得るための有効な様式なのだと考えれば、そのイメージは一変します。本を読んだり、意見を交わしたりという見た目は同じでも、その目的や中味が潜在思念の発する欠乏にマッチしているかどうかが、勉強の魅力とそこに向かう活力を規定するのだと思います。

そして、そこから自分の社会欠乏や仲間の認識欠乏に応えられている(当事者に近づいている)という実感が得られれば、「勉強」はさらに大きな充足感を伴う魅力的な体験になっていくのではないでしょうか。
 

田中素