ストレートに「勉強の必要」を語る

>さあ、認識形成サイトでネタ(新しい認識)を仕入れて、おしゃべりの場へ!まずは、おしゃべりの中身を変えていきましょう。

見知らぬおばさんどうしが会話するのは想像しやすいし、現に公園デビューという主婦世界には「だれもが気軽に認識形成を始められる土台」がある。これは崩壊寸前の家庭というカタワの集団が群れを成す団地=「縄張り境界線」において形成された「原初の社会の祖形」といっていいかもしれない。こうした解脱空間を土台に、おしゃべりの中味を転換させていけばそれは「認識まつりの場」になるだろう。しかしその大半を仕事に当てている男たちはどうだろうか?「原猿が肩を寄せ合ったような空間」をどのようにして作っていくのか?

企業というカタワの集団の狭間における脱集団の受け皿=「縄張りの境界線上」は、今のところ資格勉強の場が主体ではないか?問題は「資格」は権威=旧認識体系とセットなもので、新しい認識を紐帯とする原初の社会でいきなり資格はなりたたないというところか。しかし資格欠乏といっても激動の時代、もはや旧い権威をかさにきた資格を人々が求めているかというと実はそうとはいえない。本音は資格よりも勉強にあるのだろう。

そこで「脱集団の受け皿」=「勉強の場」はどこにおいて成立するか、、と考えてみると。実は大学や通信教育に通うまでも無く「勉強の必要性を認識したとたん」あらゆる場所が「勉強の場」にかわる。いままでは直接仕事に関係がないと忙しいからと断っていた「各種の展示会やセミナー」もチャンスである。あらゆるところが「勉強の場」であって、そこでなら「より普遍的な勉強の必要」を語り合うことは容易にできる。そう考えると団地という狭い「縄張り境界線」に押し込められている女たちより男たちの「縄張り境界線」は広い可能性もある。そう考えて今日人にあったら、るいネットの紹介もスラスラできて、とりあえず本を買ってもらった。今の時代、まともな社会人で勉強の必要性を認識していない人などいない。(興味ない人は縁が無かったと思えばいい)

しばらくおしゃべりしなくては、という強迫観念が邪魔をしていたようだ。いままでできなかったおしゃべりなど今からやろうとしてもできる訳が無いし、そんなからめ手の認識営業は向いてない人はやっても無駄だ。「勉強しよう」ストレートにそう切り出せばいいのだ。

山澤貴志