小学生の頃

かつて私が小学生だった頃、新卒の若い先生に受け持たれたことがありました。そのクラスは、4年から6年まで3年間続きましたが、そのクラスのことは今でも暖かな記憶として残っています。

当時は70年代前半、まだ受験や進路などの私権の残滓は今よりも強く、私ら子どもにもなんとなくそうした「決まりごと」が年々強くなる感じがしたものの、そのクラスだけは同学年の他のクラスと比べて傍から見ても仲が良くて元気もあり、保護者からも学年が変わるごとに担任を継続してほしいと強く要望されていました(何より私達子ども自身が、またその先生がそのことを強く願っていたのですが)。

今思うにその若い先生と私達はよく「友達」みたいだと言われました。事実そのクラスのことで思い出せることは、勉強のことよりも遊びのことでしかありません。小学生であれ、「進路」や「勉強」というものが全く必要でないはずは無く、にもかかわらず当時したはずの「勉強」が思い出されないのは何故なのでしょう。

>自習室での勉強は、学問本来の「なんで?」に対して仲間どうしで追求し合い、行ったり来たりしながら答えを導き出す充足感がある。(60930高田さん)

恐らく当時の我々には、「みんなで出来る何か」にしか興味が無かったのではないかと思われます。そう考えると、「勉強」が、突き詰めれば「みんなでは出来ないもの」、ということなのでしょうか(その後中学、高校と進んだ私達も、何時しかそうした「自分」の課題に馴染んで行き、その過程で知り合う友人達は前と比べれば数も少なく、「みんな」というような感じがしなくなっていきます)。

大事なことは「みんなで出来ること」で、そうであれば勉強も遊びも(更には仕事さえも)その対象になり得る、そうならないのは、「自分の課題」に置き換えられてしまうから、ということなのでしょう。今までとは違う「みんなで出来る勉強」が必要だと思います。

斎藤裕