「できない、覚えられない」を、どうする?(追究すべき課題とは、何か?)

>『目の前で計算のやり方を教える→その場では教えられたとおりに出来る→次に来たときにはきれいさっぱり忘れている(@o@)』
これは、ある塾の先生から聞いた話です。そんな子が、特殊ではなくある一定の割合で存在しているとのこと。

>たかが計算は得意だった(勉強は出来た)くらいで、冒頭の子供たちの事例を、傍観者的に安心したり心配したりしている場合じゃない。
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算数に限らず、全ての科目において「漢字や熟語が覚えられない」「歴史の年号が覚えられない」「地名が覚えられない」「生き物の名前が覚えられない」「英単語が覚えられない」子も、やたら増えている。

受験勉強を突破するという目的と、その旨み(私権的価値)が暗黙のうちに共認されていた一昔前なら、単に「試験に出るから覚えよう。合格するために重要だから覚えておこう。」というトークだけで、大半の子どもたちはやる気になり、ひたすら暗記しようとしただろうし、それだけで授業が成立したのかもしれない。

しかし、私権的価値がとことん衰弱した現代では、「日常生活の場面であまり使わない・記憶しても現実と繋がらない知識」について、「現実とどのように繋がっているのか?」「なんで覚えなければならないのか?」「覚えておくと、どんな役に立つのか?」「どういう意味があるのか?」についての「答えを実感し共認」することができなければ、覚える気持ちが湧いてこないし、できるようになりたい、というエネルギー=可能性収束力のエネルギーが湧いてこない。

親や教師も、私権期待をかけると子どもに嫌われるし、実は、もはや勉強するだけでは現実の役に立たない=仕事ができないことを薄々知っている=自らその意味を喪失しているから、昔のように、私権期待に直結するような強い期待をかけることは、できない。

社会から子どもにかかる期待は、限りなくゼロに等しい現実がある。
このまま放置すれば、子どもたちが自然にやる気になったり、本気で課題に取り組むようになるはずがない。

しかしながら、私権価値が衰弱した=私権獲得の可能性収束力が衰弱した現象があるからといって、「現実=みんな共認社会で充足する・適応するための」記憶や勉強の意味は、現実に存在している。
みんな共認への可能性収束力をどのように作り出すか?こそ、追究すべき現実課題なのではないか?

例えば、記憶力がよいと、みんなが思い出せなくて困っている時にすごく役に立つことができる。
特に、記憶力にすぐれた子ども時代にたくさん暗記してしまえば、いつでもそれを思い出し、みんなの役に立つことができる。
また、記憶の蓄積があると、後でその意味が深く分かるようになり、使いこなせるようになる=暗記には(私権価値が衰弱しても)確かな普遍的価値があるのも事実。

一旦先生や大人という立場やしがらみから離れて、社会の地平や共認原理の地平から「できるようになる意味・覚える意味」をどうやって生々しく伝え、子どもたちに社会的な期待をかけ、「共認形成」していくことができるのか?信頼の基盤を獲得することができるのか?その答えを出すことが、教える役割を担う側に、突きつけられた課題である。

また、例えば、百マス計算で有名な陰山氏は、『牛の心臓』を持ってきて、小学生に理科を勉強する意味を伝えたり、京都御所南小学校では、授業で『妊婦さんを招聘』し、生命の意味を実感させて、子どもたちのやる気を引き出している。

こうした事例は、子どもたちに生々しい現実=社会を繋げ、新しい勉強の意味を実感させることによって、本気にさせているのだと思われる。

現実と繋がる事例をどれだけ豊富に用意し展開できるのか?も、突破すべき課題であると思う。

安西伸大