学校の勉強か?構造認識か?は二者択一ではない。

>このように概観してみても、これまでの『教育思想』は、現実の問題に対してほとんど何も成し得ていないのではないか。それは、現実の問題を構造的に分析することなく、また現実の中から新たな実現基盤を発掘することもなく、(要するにほとんど何も考えることなく)安易なスローガン=現実に立脚していない価値観念に依拠してきたからではないか。(108599

この総括を踏まえるならば、現在教育界で議論されているの学力低下問題の対応策としての授業時間やカリキュラムの見直しレベルの対応策は、再び目先の(小手先の)変革に留まって再び閉塞する危惧を感じます。本質は何処にあるのでしょうか?

また、上記の総括から、教育は社会全体の意識潮流と同じながれである事がわかります。貧困が消滅した1970年以降は、受験戦争などの目先の私権収束と、「平等」や「個人」などの非現実の価値観念に導かれています。 このように、貧困という現実の圧力が失われて、現実が見えなくなり、目先の課題に飛びつき再閉塞して旧い価値観念にすがろうとするのは、バブル化した後、迷走を続けている社会全体の構造と同じです。
だとすれば、「学力低下」は教育の問題ではなく、社会の(向かうべき方向性の)問題という事になります。

実際、かつての「勉強」は、その先の(貧困のない)豊かさというものと繋がっていました。面白くない教科でもその先に可能性があったわけです。
しかし現代、その収束先が失われた状況では、教科は単に「面白くないもの」でしかありません。旧い規範意識によって辛うじて勉強活力が維持されているのが実態ではないでしょうか?

今必要なのは、教育自体の改革ではなく(豊かさや私権獲得に替わって)教育の目指すべき先を提起する事しかありません。
それは何か? 以下の投稿が答えになると思います。

>しかし現代の危機は、観念を駆使してしか捉えられない「社会」の危機で、それがどういう問題なのかが固定できなかったり、事実に基づかない問題意識が支配すれば、解決策を誤るばかりか、ますます危機に陥れ滅亡に至ることにもなる。これくらい最大級の「構造認識」の勉強の必要性は高まっているのだと思う。(108859

学生や若い方から、学校の勉強が大切か?それとも構造認識が大切か?という疑問が出される事がありますが、これは2者択一の問題ではなく、構造認識は学校の勉強(も含めてあらゆる事象)を収束させ統合していくものだと言う事です。この先端の位置に構造認識が必要なのだと思います。

田村正道