「旧観念刷り込みの場」→「みんなが事実を追求する場」へ。

>1年かけてこのお題を解いていく―。
こどもの興味はつきないだろうし、解明の過程で派生的に出てくる諸々の社会現象・構造は、次の「なんで?」を生起させ、その追求欠乏は無限に繋がっていくと思う。
「社会科」というおざっぱな括りはなしにして、ズバリ「国の借金800兆あるのはなんで?」というお題そのものを学校の教育課程に取り入れる、「理科」もなくして「雌雄分化の起源」にする・・。
このようなことをこれからの学校教育に期待するのは、単なる夢想でしかないのだろうか?(125024)

 今、教育の場に必要とされているのは、まさにこれなんだと思う。近今、義務教育課程における教科名(国数英理社etc)の見直しを行っている例を聞いたことがあるが、まず本当に必要なのは、教育者側が、「学校は事実を追求する場」という認識へ転換することだろう。

 学校教育は未だに私権追求を目的としていて、(私権時代の)いい大学、いい会社に入るためのスキルを押し付ける。”自分”が幸福な人生を送れればいいという個人主義を刷り込む。貧困の消滅で特権階級の求心力など失われた今、この体制にどんな価値があるというのか?そんな体制では学ぶ側の活力も沸かず、学校に関する諸問題(いじめ、不登校、学級崩壊etc)の原因となっていることに気が付いていないのか?終いには、上記諸問題の原因を家庭の躾やテレビゲームや個人の性格的な歪みとして責任逃れしようとする始末。

間違っている。学校教育がガタガタであるという事実に真正面から向き合う必要がある。個人の利益を第一目的とした教育から脱却し、みんなの課題に目を向けて、「みんなが事実を追求する場」を創っていくことが最優先課題である。

学ぶことは、事実を追求していくことは、楽しい。年齢も送ってきた人生も多様な人達が、事実を知りたいという共認のもとで、一つの場に集まる。追求思考の集団そのものが「学校」と呼ばれるべきなんだ。成績を競うのではなく、みんなで事実を追求していくことの喜びを、みんなで与え合う。お互いに助け合って学ぶ。そのような教育にこそ価値がある。

ガタガタな学校教育、ガタガタな社会を見るに、「旧観念刷り込みの場」→「みんなが事実を追求する場」への意識転換は、今すぐに取り組む必要がある!

すずかん