読解力ってなんだろう?

経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で要求される「読解力」って本当に必要なものなのかは疑問です。

極東ブログで問題の事例が紹介されていました。リンク
ちょっと長くなりますが

>以下引用
・落書きに関する問題
ヘルガの手紙
 学校の壁の落書きに頭に来ています。壁から落書きを消して塗り直すのは1今度が4度目だからです。創造力という点では見上げたものだけれど、社会に余分な損失を負担させないで、自分せ表現する方法を探すぺきです 。
 禁じられている場所に落書きするという、若い人たちの評価を落とすようなことを、なぜするのでしょう。プロの芸術家は、通りに絵をつるしたりなんかしないで、正式な場所に展示して、金銭的援助を求め、名声を獲得するのではないでしょうか。
 わたしの考えでは、建物やフェンス、公周のペンチは、それ自体がすでに芸術作品です。落書きでそうした建築物を台なしにするというのは、ほんとに悲しいことです。それだけではなくて、落書きという手段は、オゾン層を破壊します。そうした「芸術作品」は、そのたびに消されてしまうのに、この犯罪的な芸術家たちはなぜ落書きをして困らせるのか、本当に私は理解できません。
                    ヘルガ

ソフィアの手紙
 十人十色。人の好みなんてさまぎまです。世の中はコ ユニケーションと広告であふれています。企業のロゴ、お店の看板、道りに面し年大きくて目ぎわりなポスター。こうい うのは許されるでしょうか。そう、大抵は許されます。では、落書きは許されますか。許せるという人もいれば、許せないという人もいます。
 落書きのための代金はだれが払うのでしょう。だれが最後に広告の代金を払うのでしょう。その通り、消費者です。
 看板を立てた人は、あなたに許可を求めましたか。求めていません。それでは、落書きをする人は許可を求めなければいけませんか。これは単に、コミュニケーションの問題ではないでしょうか。あなた自身の名前も、非行少年グループの名前も、通りで見かける大きな製作物も、一種のコミュ ニケーションではないかしら。
 数年前に店で見かけた、しま模様やチェックの柄の洋服はどうでしょう。それにスキーウェアも。そうした洋服の模様や色は、花模様が措かれたコンクリートの壁をそっくりそのまま真似たものです。そうした模様や色は受け入れられ、高く評価されているのに、それと同じスタイルの落書きが不愉快とみなされているなんて、笑ってしまいます。
 芸術多難の時代です。
                    ソフィア

この手紙の対して 設問は4問あります。
(1)ふたつの手紙に共通する目的は何か(4択)
(2)ソフィアが広告を引き合いに出した理由は何か
(3)どちらに賛成するか
(4)どちらのスタイルが優れているか

<引用終わり

このふたつの文章を読んで一番に気になるのは、ヘルガとソフィアが何故この文章を書いたかです。
この文章は本当に落書きにまつわる根本問題を追求しているのではなく、相手を説得するために書かれています。
どちらも落書き問題は解決ししようとはしていません。
簡単に言うとどうでもいいことです。

これが落書きは芸術かどうかという問題を考えるならおもしろいテーマになります。人類最初の落書きはアルタミラの洞窟絵ですが、其れを彼らが何故書いたかを考えると一つのおもしろいテーマになると思います。さらに芸術とは何かと言う疑問も湧いてきます。

ですからここで要求される「読解力」って本当に必要なものなのかは疑問です。
ヨーロッパ的な近代の知識人とは、たとえば一切現実が変わらなくとも、より巧みな否定の論理があれば、何かを語ったことになります。
ジャーナリストの言説がそれで、意識と存在が断絶してしていてもいいわけです。こんな倒錯観念ともいえる否定だけの議論では何も生まれないと思います。
このような読解力を高めるための学習は、心がどんどん壊されていきそうにおもいます。



志水満