'70年代を境にした私権闘争と私益追求の差異

'70年、貧困が消滅し私権の強制圧力が衰弱していく。結果、国家も企業も個人も私権収束では統合できなくなった。3000年に亙って社会を統合してきた私権原理の終焉である。(実現論9_5_01

私権の強制圧力とは否応もなく人々の心を私権(お金や地位や女の)獲得に向けて動かす力である。'70年代直前には中卒を乗せて大都市へと向かう就職列車がまだ頻繁に走っていた。勉強したい、故郷に留まりたいと思っても許されなかった時代だ。彼らの多くは自分が食べていくための職を手に入れるためだけでなく、「家」に仕送りするために巣立っていった。そこには「自分の好き嫌い」が入り込む余地は、もちろんなかった。当時は現在のような好き嫌いで選ばれる自由な恋愛結婚が台頭し始めたころで、まだまだ見合い結婚が主流の時代であった。

'70年、それは所得は倍増し、テレビ・冷蔵庫・洗濯機の3種の神器を買い求めて行った時代。豊かさ・利便性の追求がはじまった時代でもある。若い人の中にはこの私益追求が私権獲得闘争と同義に感ずる人もあるようだ。私権闘争は'70年を境にしてむしろ強まったのではないかと・・・
しかし、両者は活力のエネルギー量において、そして質的意味合いにおいてまったく違う。

私権闘争とは、本人が命を懸けて闘う(そうしないと自分が生きていけなくなる)絶対的な外圧=私権の強制圧力がはたらいており、それに対して私益追求は貧困が消滅しその外圧が緩んだために生じる反のエネルギーを活力源にしている。だから、いつでも「気に入らなければ」放棄できるので、ヒッピーやプー太郎の誕生が可能だったのである。

誰もが否応もなく私権獲得の闘争に向かうので、個人も企業も社会も私権に収束し統合された。それが私権統合という統合様式。とろこが、私益闘争は私益を誰もが求めれば求めるほど国家も企業もそして実は多くの個人もバラバラに分解していく、反統合様式である。つまり、強制圧力によって共認しながら封じ込まれてきたのは自分中心という自己中(=自我)であり、それが私益追求という名で発現を許されるやいなや、一気に社会はガタガタどころが、滅亡の危機を迎える。それが現在の姿である。

吉国幹雄