絵コンテと教育

常に悲しい事態になってるんですが、あの、自分達の弁護するわけじゃないんですが、映画というのは、アニメーションに関して言いますと、最初に予定を立てて、その通り絵コンテを切ってしまうよりも、途中で作画に入って、作画しつつ、絵コンテ作業をつづけた方が、どうもうまくいくんです。ああだこうだ手を掛けながら、付き合っていきますとね、前よりもずっと、そのキャラクターを分かるようになるんです。
 これは面白い経験なんですけど、ホン書いている時にも、この人はここには出てこないけども、こういう過去があるぞとかね、こういう裏側があるんだとか、いろいろ思ってるんですけど、それがもっと膨らんでくるんですよ。それは確実なんです。そうすると、この人物は、初めはここで笑わせるつもりだったけど、絶対こりゃ笑わないとかね。ここで、この人物は戻って来ない。戻って来ないと話が出来ない、どうするか? という具合に、だいたいなるんです。
 そういう経験からして、絵コンテ早くしろって、他のスタッフには言うんですけど、実は、絵コンテは時間がかかって映画が出来る寸前まで出来ないもんだっていうのを、この頃、思うようになりました。
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 僕が、「絵コンテ」について言えることはないのだが、この絵コンテの「出来方」は、僕が学校でやっている「障害児教育」にもあてはまるなと思って面白かった。
 絵コンテは、学校教育で言えば、「年間指導計画」にあたるものだ。
 僕も、もちろん、最初に「指導計画」を立てるわけだが、それは絶えず、生徒との関係の中で変化していく。それが当然だと、僕には思われる。
 現在の学校は違っている。
 ちゃんと計画を立てられるかどうか、が問題になっている。生徒の指導が失敗したら、それは、最初の計画の「見立て」が間違っていた、ということになる。
 僕の経験から言うと、それは違う。
 いいアイデア、役に立つアイデアというのは、生徒と毎日、関わっている途中で、ふと思いつくものだ。そうやって、たえず、<現在>の中で、変化していくものだ。
 最初から考えて立てた「計画通り」にうまくいった実践の報告などもあるし、そういう「マニュアル本」もあるみたいだが、僕はほとんど信用していない。
 本当は、人間というのは、「頭」で考えた計画の通りとしては、人間と人間は関わっていないと考えるべきなのではないだろうか。
 「頭」(脳)だけで人間は生きていない。
 人間と人間は、総体の人間として関わっている。
 考えた理念と絶えず誤差ができるのは、当然のことだ。 




匿名希望