いじめが解決しないのは、“いじめは悪”という現実否定意識発だから

NHKのサイト『金曜かきこみTV』の「いじめを考えよう」には、管理人が発する設問に対し、子供達から多くの意見が寄せられているが、2006年度掲示板に「いじめを無くすには何が必要か?」というコーナーが設けられている。(リンク )

それに対する子供達からの意見は、過半数が「いじめはなくならない」「人類滅亡しない限りなくならない」といった、ほとんど諦めモードのものばかり。

また、中には「悪い点をけなすのではなく、こうしたら良くなると期待する」や「いじめ(という課題)があるから人の大切さがわかる、絆ができる」「みんなで考える」と言った、本質に踏み込みかけたものもあるが、多くは「愛が必要」「希望が必要」「耐えるしかない」「強くなるしかない」「いじめ禁止法をつくる」・・・など、解決策から遠いものが大半となってしまっている。

他の設問では、かなり鋭い意見が出されているにも関わらず、“どうする?”となった途端にいきなり迷走してしまっている・・・なぜか?

①いじめの当事者が答えを出すのは難しい?

いじめの渦中にいる子供達は、目先の対応策にしか向かえず、自分達の世界を客観的に見て答えを出すのは、自力だけではやはり難しいのではないか?
その意味では、やはり大人にその期待がかかるところだが、「去年の秋以降、何が変り、変っていないか?」「いじめに対する認識は大人と子どもで違う?」などのコーナーでは、政治家もマスコミも教師も親も、上辺だけ、子供のことより世間体、子供の世界をわかろうとしてない、マスコミの自殺報道は金儲けのため・・・と、答えを“出そうともしない”大人に対する不信感の塊になってしまっている。

②大人(マスコミ)の撒き散らす旧観念の影響を受けているから。

「愛」「希望」「耐える」・・・など、マスコミが報道する解決策とほとんど同じことを繰り替えすだけの投稿も少なくない。

③マスコミの(自殺等の)過剰報道によって、“いじめは悪”という一面的な固定化が強固になされているから。

子供達の声を読んで、これが一番大きな原因となっているように感じた。

例えば、いじめをする理由に「楽しいから」という(正直な)意見が結構出てくる。しかし、なぜ楽しいか?を考えた時、“いじめは絶対に悪”という前提からは、“他者を見下すことの優越感”という否定的な理由しか見えてこない。

確かにこれは一面事実であり、自己中化の進展の結果と言えるのだが、“いじめは悪”の固定観念からは、“「楽しい」のは、みんなの課題だから。共認充足が得られるから。”あるいは、“そもそもいじめとは、潜在的に共認収束した子供達が、はじめて自分達で作り出した課題であり、一種の祭りである”というプラス(可能性収束)の側面は絶対に見えてこない。(子供達にとって、ある意味“いじめは必要”なことだからなくならないとも言える。)

だから、「いじめを無くすには、それに代わる新たな課題を創出すれば良い。」という突破口が見えてこないばかりか、否定意識発(現実否定の倒錯思考)であるがために、“体罰を与える”“退学にする”“昔の規範教育を復活させる”など、原因分析には一切向かわず、いじめの発生を前提とした、目先かつ、誰が見ても(子供達から見ても)到底解決するとは思えない的外れな方針しか思いつかないのではないだろうか。

結局、いじめが解決しない、一向に減らない理由は、責任逃れと自己保身に終始し、決して子供達の意識に同化しようとせず、固定観念に凝り固まった大半の大人達(とりわけ金儲け主義のマスコミ)が、無自覚にに子供達の声や、可能性収束を押さえ込んでしまっているからではないかと思う。

越見源