遊びとその比としての現実社会

興味深いことに子どもは生物学を含む理科的な反応をする大人に強い関心を持っています。例えば、採集、栽培、狩猟、漁労で、やみくもに人力で遊んだ後で大人ならではの経験や知識や基本的な技術を披露すればいっぺんで○○ファンというか興味を持ちます。この橋渡しは決定的にその後の子どもの人生の豊かさに影響すると想います。
しかし最初は遊ばせないと遊ぶことで楽しさを知るということばかりではなく、子どもの現時点での遊びの体力や技や協力でどこまでできるのかを試していないので、
これをするとどれくらい疲れるとか痛いとかを無理なく覚えていくことをパスして、より大きな知的、技術的、機械的パワーのイメージができなくて困るということもあるはずです。
やはり生き物として実感の基準になるのはそのときそのときの体感と実感、そして道具や技術や機械はその比としてイメージされるものではないかと考えます。
林業をチェーンソーでしている人が自家消費用のまき割りをしたり、事務のプロが結局は暗算で検算したり、大工さんが目算で始まり手触りで終わったり、我々のような塾業界の人々が生徒の挨拶の声、顔の表情、足取りなどで心配したり安心したりします。
塾で言えば、その子が元気かどうかなどは自分がどれだけ遊んで喧嘩して解決してなどいろいろと照らし合わせるものがないとできません。あらゆる経験を積んだ人が存在するとは想えないので若い人ほど多くの同僚や仲間と相談すれば期待に応えられる可能性が大きくなるはずです。
思考道具を含む道具は実感を補い、増幅し、精度を上げるのに大変役立ちます。子どもたちが人力でいろいろ遊んだ後で、大人の技の一端に触れたときに見せる急激な進化はスポンジのような吸収力で自己の事例に適用してゆきます。その適用の速度は音速、光速であるかのようです。
道具を使いこなせるのは一生ものの財産、これは家族であれ近所の人であれ複数の人から聞いたことがあり私もそう想います。しかし学校で教わることにはそのような内容が限りなく少ないです。せめてもの道具としてモバイルなどがあるにはありますが、それではなんで直接の相談が以前よりも増えているのでしょうか。おそらくネットやモバイルは入口の一つであり出口を提示していないからであると想像します。
これは現時点でのイメージですが、社内ネットと同じように学校にも校内ネット学校間会議システムなどがあって、いろいろな学校の先生方や生徒たちの直接の意見交換、相談の場が構築されると良いと想います。別に行政でも親御さんでも塾でも、子育てに関心がある方ならどなたでも接続でき、多様な思考道具を仕入れながら供給すれば良いと想います。どうせ日本の子どもひいては地球の子どもを育てているわけですから学校などと言うちっぽけな利害は乗り越えられると想います。そして乗り越えつつ、足元の地域なり集団なりを充実させていく。
ごく小さい年齢の子どもたちには担任はいても他の先生もみんなの先生です。それが少し大きくなるころにはこのクラスの生徒だからという理由で隣のクラスの友達に会うときにさえ緊張したりしますし、昔の担任が別のクラスをもったりすると相談しにくくなります。この習慣はいろいろな個人主義や私有主義の土台になっているような感じがします。
ぜひ小さいころのような隔ての少ない関係、子どもにとっても大人にとっても誰のではなくみんなの、良いもの興味深いものにどっと惹かれるような、一生ものの関係道具を発掘発明していきたいですね。



佐藤英幸