同じことを学んでも差がつく理由について再度考えてみました

同じことを学んでも差がつく理由について再度考えてみました。
まず同じことを学んでいても、学ぶ人が違うので差がつくということをもう少し深く考えると、
●なぜそれを学ぶのかが違う。
●理由が似ているとしてもそれまでの蓄積が違う。
●できる人は入口をこだわらない。
この近年で特に優秀だった子どもたちをイメージしながら考えているのですが、もっと知りたい、何を知りたい?人はどこからきてどこへ行くのかを知りたい。
現象として現実こうなっているけれども、もう少しすっきりと人類というものの線、歴史というものの線、そういうものがあるのではないか?その線から大きく踏み外したときにいろいろな問題が生じるのではないか?何かに振り回されているのではないか?振り回されているからと言って何も手立てがないわけではないのではないか?
みたいなことを考えている子がすっきり感を求めて、入口にこだわらずにほぼ何でも考える材料にしているという感じです。
実際上の一人ひとりの、これによって解決していきたい、のようなものはそれまでの愛着形成によってそこをとっかかりにしているのですが、だからといってその対象だけの研究によって解決できるとは考えておらず、何でもヒントにして自分なりに考えを磨いていくというふうな比較的柔軟な吸収力が幹を太くして枝葉を張っていっているような感覚です。
そういう育ち盛りのときには多様なジャンル、豊富な環境などによって、常に自分の考えを修正しながらいければ良いのですが、学校ではどうしても材料が足りないというか、意図的に官僚制の維持やつばぜり合いの競争に捕捉されて身動きが取れません。
それでも学校であっても何でもヒントにしてしまおうという中3くらいまでの勉強が余裕の子たちは小中の9年間を哲学的に?使いますので、高校へ行って余裕が少なくなってくると、
子どもさんによっては中学の勉強を苦労した普通の仲間たちの過去に想いを馳せたり、自分もこのレベルくらいからは凡人なのだと実感したりして、徐々にピントハズレだったのは自分の方ではないか?と人生哲学をやり直したりします。
そうこうしているうちに高校の3年間が過ぎ、想ったよりも自分にとっては大したことのない大学へ進学したという人がほとんどだったのではないかと想像します。
それは半分当然のことで、定年前の全世代の若者時代は既に学歴が最大の目標ではなく、死に物狂いで頑張るつもりでいても心底からはエンジンがかからなかった、受験に対して肯定的な追い風が世代の背中を万遍なく吹き続けるといった環境ではなかったからです。
そう言う意味では現在のこの環境で勉強に目覚めている子がごく少数いるとすれば、違った意味での追い風、日本も人々もこのままではいけないという危機感発の可能性探索がエンジンなのかもしれませんし、それは問題意識とはまた違った合理性のある冒険、挑戦意識が存在しているような気がしてなりません。
もっとも日本においては95年の震災から10年に一度は経験する未曽有の災害が連続しており、よほど幸運でなければ被災経験がゼロの人はいないのではないかというくらい広範です。しいて言えば現在の日本の中枢である関東が無傷であり、その奇跡によって救助も救援もできているということもできます、だからこそもし関東を助けなくてはならないような事態が発生した場合に、どのようにしていくのかという得体のしれない課題も存在すると想います。
日本はインフラの整備、環境対策、対外交流などに多額の財を投入してきておりこれらも立派な財産ではありますが、何よりも大きな財産は数千年の歴史から育てられた日本語を含む民族性と思考性能の高さであると感じています。特にほんのりと平和のときに積んできたものよりも歴史的に数多く経験してきた自然の変化や他国の圧力を内圧に転じさせて逞しくなってきた諸々の財産が物凄い(物凄かったのだ)と想います。
今、これまでの歴史に負けないような、下手をすると一番になっているかもしれないくらいの課題に直面して、敏感な子どもたちから順に危機感が発動している。受験遊び?みたいな段階ではなくなってきている。金メダルが取りたいというものでもなくなっている。深いところから発生している想い、強い危機感から発生している想いが、鈍い認識によって堕胎させられるのを防がなければならない。そんな言葉にならないような互いの可能性探索が、同じことをしているのに吸収力が異なるための一つの要因として年々顕在化しているところであるように想わざるを得ないこの数年です。



佐藤英幸