教えることにハマる教師たち

現在の学校制度における“学校とういう場”“教師という立場”には、構造的な欠陥がはらんでいるようです。、
以下、『一冊の本』記載の内田良氏「閉ざされた敷地の中で」から転載。
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■教えることにハマる
 教育というのは、恐ろしい。教育する側の者を、虜にする。
 私は大学教員で、長い年月にわたって、教鞭を執っている。かつて私がまだ大学院生だった頃、先輩の大学教員が、自戒を込めてこう教えてくれた―「大学教員になると、気持ちいいよ~。学校に行っても、教育委員会に行っても、『先生、先生』って呼ばれるし、自分が語るとみんなウンウンと頷いてくれるからね」と。
 なるほど、大学院生の頃に比べると、ずいぶんと私自身偉くなったものだ。大学院生のときは、どこに行ってもつねに勉強する立場、教えてもらう立場にいた。
 ところが、大学教員という職業に就いたとたんに、私は人びとに自分の考えを伝える立場に「昇格」した。何らかの機会に、学校の授業を観察したり、教員研修でのグループ討論に顔を出したりすると、「ご高評を」と意見を求められる。いや、私はそのテーマについては、まったく素人同然なのだけれども…
 しかし、無茶ぶりとはわかっていても、立場上やむなく「ご高評」を話しているうちに、だんだんと調子に乗っていくことがある。誰も止めることもないし、話の内容を批判してくることもない。私の独壇場だ。
■加害者としての教育者
 教師としての役割をひとたび与えられると、人は自分の主張を嬉々として話し続ける。本人は大事な内容を発言していると思っているだけに、」これにはなかなか抑制がはたらかない。話がつまらないと、学習者側の苦悩は、増すばかりである。
 じつは私たちはこうした苦悩があることを、「学校あるある」としてよく知っている。なぜなら、程度や内容のちがいこそあれほとんどの人は、学習者としてそうした苦悩を何度も経験してきているからである。
 そうは言っても、授業が退屈なものとなってしまうのは、現実のところなかなか避けがたい。もちろん教育者側には、創意工夫がもっと必要だ。だがそもそも学問、とくにその基礎的知識の習得段階におけるそれは、そう楽しいものではない。むしろ黙々と学んでいくべきことがたくさんある。
 注意しなければならないのは、その「教育」活動の延長上にある「ハラスメント」である。教師という立場を利用してつまらない話を押しつけるその先に、暴力的で人を傷つけるような言葉が発せられることがある。それがまかりとおってしまいかねないのが、「教育」である。
 2013年のこと、名古屋市立の小学校で、太っている児童や背の低い子どもたちに対して、クラス担任がその身体的特徴を侮辱するようなあだ名を付けて、授業中に子どもたちをそのあだ名で呼んでいたという事案が報じられた。教師によると、あだ名で呼んだのは、「親しみを込めたつもりだった」という。よかれと思ってやったことが、それとは裏腹に子どもを傷つけていたということだ。
 「親しみを込めた」という表現にみられるように、子どもへの心理的あるいは身体的な暴力は、それなりのよい効果が期待されて、教師から子どもに与えられたものである。教育者は当の行為や発言を「よかれ」と思ってやっているだけに、その行為には抑制が効きにくい。
 この構図は、教師による「体罰」(身体的暴力) にも当てはまる。教育の一環あるいは指導の一環という価値観のもとで、暴力が振るわれる。
 学校を舞台にして、教育的立場にある者から子どもに向けられる、嫌がらせや侮辱、暴力がある。教育的立場にある者は、自身が加害者になりうるのだということ、教育という営みはつねにそうした負の側面と隣り合わせであると
いうことを自覚しなければならない。
■被害者としの教育者
 学習者である私たちは「学校あるある」のなかで、往々にして沈黙を強いられてきた。だからこそ、私たちはその裏返しとして、ときに容易に教育者に対して非難の言葉をあびせる。まるで、かつての子ども時代の憂さを晴らすか
のように。
 今日の教師批判は、目に余るものがある。教師の不祥事が報道されるや、ネット上は、教師に対する罵倒の言葉であふれかえる。世の議論は冷静に教師の責任を問い、事案の再発防止を考えているというよりは、教師を罵倒しでカ
タルシス(心のスッキリ感)を得ているように見える。
 子どもがいじめを受ければ、「先生が悪い」。子どもが事故に遭うと、「先生の責任」。子どもが部活動の試合で負けると、「顧問は指導力がない」。具体的な検証を経る前から、人びとは教師に対して厳しい目線を向ける。
 このとき教師はむしろ、マスコミや市民や保護者からの過剰な非難や嫌がらせを受けているとみることができる。教師はたしかに個別事案において加害者になりうるけれども、同時に「善人」の仮面をかぶった人びとからの攻撃の対象にもなりうる。教師はときに、被害者の立場にも転じうる。
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斎藤幸雄