学校への期待と幻想(2)②

だいずせんせいの持続性学入門 より転載です。
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高野雅夫・名古屋大学大学院環境学研究科・教授
(①のつづき)
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 これは大量生産・大量消費時代に必要とされたエートスである。ところが時代は変わった。今は全体の需要が減少する中で、「ただ作るだけではけっして売れない」経済である。大企業は海外に工場もオフィスも作って出て行った。国内に残るのは企画・開発部門である。求められる人材像がまるっきり変わってしまっている。何かクリエイティブなものが求められる。過去のルールが大事なのではなく、ルールをはみ出した何か新しいものが求められる。
 実は大企業の中でもそのようなセンスを持った人は採用されてこなかったので、クリエイティブな人を育てる仕組みは大企業の中にはない。大企業は結局時代の変化に対応できず、少しずつ沈んでいく。
 できないことを要求されて、「できない自分が悪い」と思ってしまうメンタリティは、ブラック企業にうってつけである。どこまでも労働強化を強要される。そして疲弊し、心身の病気になり、企業の思惑通り中途退社となる。
 一方、同質化に自分を委ねることができないメンタリティは、都会では生きのびる場所を見つけるのが難しい。ブレーメンの音楽隊のように、ノアの箱船に乗りにやってくる動物たちのように、若い世代が都会を逃れて田舎にやってくるようになった。そこは耕作放棄地が広がり、管理放棄された真っ黒な森が広がり、打ち捨てられた空き家がここそこにある「見捨てられた場所」である。そこに大量生産時代の同質化のルールはない。そこにあるルールは、それ以前の自然とともに人間が暮らしていた時代のルールがかろうじて保存されている。
 「見捨てられた場所」だからこそ、ルールにとらわれず自由自在にできる。今は、歴史上初めて、農家の跡取りでない人が新規に農業を始められる時代である。耕作放棄されていた農地に、これまでにない有機農業、不耕起農法、自然農、自然栽培などのクリエイティブな農の姿がある。金目のものにしか興味がない大人世代が見放した森林は使いたい放題である。木工品、製材品、木のおもちゃ、バイオマス・・・クリエイティブな新商品が登場するのは、都会の大企業の企画室ではなく、田舎の工房である。空き家になった古民家を現代的なセンスで改修する。伝統的なたたずまいとおしゃれな感性が交錯する。クリエイティブな建物は郊外の住宅団地にではなく、田舎にポツポツと見かけられるようになった。
 社会とは自分の望みを叶えるところである。望めば叶えられる。叶えられないとしたら本気で望んでいないということである。皆が思う存分やりたいことをやれば良い。いけないのは腰が引けていること。やるなら徹底的に。その中で様々なネットワークができ、相乗効果が生まれ、さらに新しいことが生み出される。皆と同じことができないのは当たり前。自分の持ち味を発揮すれば良い。仕事をするとは、自分が得意なこと、やりたいことをやって、お金を稼ぐこと。休みも仕事もいっしょくたになっていて見分けがつかない。
 そういうメンタリティと実際の暮らしをしている人が田舎には確実にいて、しかもかなりのスピードで増えている。誤解のないように。未来永劫田舎だけがクリエイティブな場所というわけではない。都会が遅れているだけである。都会もそのうち田舎に追いついてくるだろう。そうすれば、若い世代が暮らす場所の選択肢は広がる。
 子どもたちが最終的にそういう暮らしに到達するのを目指して教育が行われるように、学校を作り変える必要がある。もちろん、それは無理な話だ。まずは学校でないところでそういう教育が実現する。それが相当程度一般化されたところでやっと学校が変わる、という道筋だろう。
 そういう思いで私は仲間とともに「千年持続学校」とか「ミライの職業訓練校」とかいう「学校」という名前が付いているけれども学校でない学びの場を作る活動をやっている。そこには制服も前ならえもない。個が輝くことによって集団が輝く。いつか普通の学校がそういう場所になることを夢みて。
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 (転載おわり)



孫市