学校への期待と幻想(2)①

だいずせんせいの持続性学入門 より転載です。
リンク
高野雅夫・名古屋大学大学院環境学研究科・教授
--------------------------------------------
学校への期待と幻想(2)
2016-06-07 14:19:06 | Weblog
 
 先日、豊田市の旭地区の田舎に大学生たちが合宿に来た。田舎の暮らしを体験して自分たちの人生を考えるという趣旨で、主に移住者たちの暮らしぶりを見る内容だった。私は最後の振り返りのワークショップを担当した。学生たちの多くが同じような感想を持っていた。「子どもたちが自由すぎる」、「叱られないのにびっくりした」さらには「彼らは大きくなったときに社会のルールを守れるのだろうか」という心配まで。だいたい移住者の子どもたちは、自然の中でのびのび育っている。親は、あれはダメこれはダメとやかましく言わない。言うヒマがないと言うこともあるし、のびのび育てる子育てがしたくて田舎にやってきたわけである。
 そこに都会で生まれ育った学生たちは違和感を持ったのである。自分たちは、あれはやっちゃダメ、これはダメと言われて、お行儀よく大人の言うことを聞くようにしつけられてきた。家庭だけでなく、学校でもルールを守ることを第一に校内の生活を過ごしてきた。どんなに騒いでいても、走り回っていても誰からも注意されない子どもたちの姿に、大学生たちは違和感を通り越していらだちを覚えたかもしれない。自分たちも本当はそうしたかったのにできなかった。ずるい、と思う心理である。
 学校の体育の時間。「前ならえ」をして整列する。集団で行進する。これは軍隊の教練が起源である。第一次世界大戦より前の軍隊は、何も隠れるもののないところを、横一列に並んで敵陣に迫っていくのが標準的な戦法であった。最前列が撃たれても、次々と奥から列が前に出てきて前進した。敵陣に到達した時に十分な数の兵士が残っていれば良いのである。個を犠牲にして集団を機能させる。軍隊の本質である。
 なぜ戦争が終わって教育が「民主化」された時に、「前ならえ」がなくならなかったのだろうか。
 ほどなく高度経済成長が始まる。1950年代半ばから、バブルが崩壊する90年代初頭まで、日本は「作れば売れる」経済だった。いかに品質を保ちながら、速く大量に生産するか。そして大量に輸送し販売する。そこで必要だったのは、材料や生産設備、流通設備の標準化、規格化、同質化だった。それを動かす人間も同じように「指示されれば指示された通りに実行できる」知識レベルの標準化とコミュニケーションの同質化が求められた。「前ならえ」の訓練が必要だったのである。
 社会とは自分の望みを叶えるところではなく、ルールを守るべきところ。自分の思い通りには決してならない。皆が勝手に自分の思い通りに振舞い始めたら、社会は混乱して成り立たないではないか。皆と同じことができなかったら、あるいは指示されたことができなかったら、それは自分が悪い。仕事をするとは我慢してお金を稼ぐこと。休みの日に稼いだお金で好きなことをすればよい。
--------------------------------------------
(②につづく)



孫市