『脱学校論』①

1970年代に『脱学校論』を訴えていた哲学者がいたことをご存知だろうか?オーストリアの哲学者であるイヴァン・イリイチの著書「脱学校の社会」を要約紹介している文章を紹介する。完全なものではないが、現代社会の我々が再考する時期に来ているのではないだろうか。
(以下、リンクより引用)
1970年代後半から80年代にかけて、「脱学校論」は非常なリアリティと説得力をもって日本の教育界を駆け抜けた。
イリッチが告発したのは、「価値の制度化」の問題だ。
何が教育的なもので何が教育的でないものかは、学校が決定する。つまり「教育」は、「学校」に独占されているのだ。学びたいから学ぶのではない、学ばなければならないと決められているから、学ばざるを得ないのだ。この制度化された教育的価値を、再び個々人の豊かな生に資するものとして取り戻そう。イリッチはそのように訴える。
その方法は、制度としての学校を脱却し、自由なコミュニケーションを通した学習機会の網の目、opportunity webをつくることにある。個々人が、個々人にとって大切なものを、自らの意志によって学ぶ。学び合う。そのようなネットワークを構築すること。そのことで、個々人の豊かな学びや成長を保障すること。現代のインターネット社会、またいわゆるオープン・エデュケーションの世界を、予見していたとさえ言っていいような発想だ。
(中略)
イリッチの死後十余年、彼の思想は、今こそ改めて読み直される必要があるとわたしは思う。
1.なぜ学校を廃止しなければならないのか
「私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。〔中略〕人々が、健康、教育、輸送、福祉、心理的治療といった価値は、制度からのサービスあるいは制度による世話を受けたことの結果として得られるのだと思うようになるならば、この破壊の過程がいかに促進されるかを説明しよう。」
イリッチの社会批判のキーワードは、「価値の制度化」だ。
先にも書いたように、価値とは個々人の多様な豊かな生のために、個々人が自ら実感し育てていくものであるはずだ。しかし教育も医療も福祉も、みな「あるべき姿」が公的価値によって決定されている。たとえば、学校的知識を持っていれば持っているほど、彼は「有能」な人とされる。医療で言えば、お腹周りが何センチ以上の人はメタボと診断され、「不健康」な人と決定される。学校的知識がそれほどなくたって、世故に長けた人はいっぱいいるじゃないか。太っていたって、それで豊かな人生を送っている人はたくさんいるじゃないか。イリッチの批判は、さしあたりそうしたものだと考えていい。「価値の制度化」は、個々人の多様で豊かな生を妨げてしまうのだ。
「学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行なうのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、また行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的活動にほかならないとみなすのである。」
2.学校は貧富の差を拡大する
またイリッチは、学校制度は、建前上は教育機会を均等化することで貧富の差を埋めていくと言いながら、事実上、その差を拡大しているのだと告発する。
「子供一人当りに支出される費用についてみると、全国民の10パーセントを占める最も貧しい人々の子供に比べて、彼らの子供はその10倍もの公費を獲得するのである。このことの主な理由は、裕福な家庭の子供はより長い年月にわたって学校教育を受けるということ、大学での一年間は高等学校での一年間よりも比べものにならないほど費用がかかること、およびほとんどの私立大学は――少なくとも間接的に――税金からまわされた公費に依存しているということなどである。」
そして言う。学校制度は、チャンスを平等にしたのではなく、チャンスの配分を独占化したのだと。できるだけよい学校、上の学校に行かなければ、もはや社会における一定以上の成功はほとんど期待できない。すべては学歴で決まってしまうのだ。そしてこの学歴には、家庭的出自が大きく影響する。こうして、学校は貧富の差を埋めるどころか、むしろその差を拡大しているのだ。
②へ続く



志葉楽