学校は《最先端》であるべきだ。

今から40数年以上も前のことになりますが、私が小学生だった頃、滋賀県の片田舎では、家にないものが学校にたくさんありました。
大阪で万国博覧会が開かれたのが1970年。当時、小学校5年生だった私が、今でも鮮明に記憶している光景があります。
小学校の理科室に鎮座していた、SONY製のオープンリール・ビデオデッキ。オレンジ色があしらわれた筐体がなんとも格好良く、先生が映像教材を再生してくれる時間がとても待ち遠しかったのを覚えています。
「さすが、学校ってところはすごいなぁ~」。
それだけで学校の存在意義というか、偉大さや権威が感じられ、毎日、学校に行くのが楽しみでした。
ところが、今はどうでしょう。
技術革新が進み、いろいろな商品の価格が下がり、最先端の機器が家庭でも簡単に手に入るようになりました。
むしろ、個人(家)の方が学校より一歩も二歩も先に進んでいて、パソコンやビデオ、デジタルカメラなど、「学校で使う機器よりも、家にある方が新しくて高機能だ」という現象が、一部の学校を除いて、むしろ当たり前になってきています。
加えて、校舎などのハード面、例えば洗面所やトイレ、照明、空調など、地域や公私の別などで大きく違いますが、学校以外のところの方が「きれい」で「快適」な空間だというところはたくさんあります。
さらには、こういったハードに限らず、ソフト面というか、物事の考え方や体制みたいなものまでが、世間から見れば「学校は遅れている」と言わんばかりの論調が賑やかで、何かにつけて「社会とのズレ」が世間で語られ、印象づけられています。
 
もちろん、崇高な教育理念の下、いくら校舎がボロボロで、設備や環境が整っていなくても、立派な教育はできると思います。
しかし、それは極めて限定的な条件の学校であって、ここまで物質的な豊かさや便利さを味わってしまった今、学校の存在価値がきちんと認知されていなければ、なかなかそういう意識には至りません。
貧しい生活の中、苦学して云々・・・という時代を否定しているわけではありませんが、教育にはそういった「環境」が必要です。
今こそ、もっと教育に「ココロ(heart)」と「モノ(hard)」をかけ、学校というところが良い意味で「羨望の対象」となるような、「《最先端》の場」をつくっていく責任が、我々にはあると思っています。
学校には、学び手のココロに訴えかけるような、感性を呼び起こさせるような、さらに知識を吸収して、自分を高めたくなるような・・・そんな誘いを与えてくれるような《最先端》の学びのシステムや空間デザインが必要です。
 
もちろん、それにはお金が要ります。
しかし、単にお金をかけて整備すればいいかと言うと、それだけではありません。お金を投入して得られる「モノ」以上に大切な「想い」が、そこには絶対必要です。
 
本校も、まずは教職員の意識から高めていこうと、日々、取り組んでいます。幸い、人の縁を活かし、知恵を絞り、自ら一歩を歩み出せば手に届く《最先端》が、いろいろなところに芽吹きはじめました。そのおかげで、お金ありきの議論から、少し違った視点で物事が見えるようになりました。
そして、それが実を結び、昨年度から今年度にかけて、いくつもの新しい学びの場を創り出すことができました。ありがたいことだと、感謝しています。
 
また、一方で学校が《最先端》であることは、学校での学びが「人が生きることと一体化している」ことを意味します。
学校で学ぶことが、単なる入試を突破するためだけといった、狭くて特殊なものに終始するならば、そこに意欲や価値を見出すのは極めて困難です。
かつての高度経済成長期ならいざ知らず、リアルな生活感に根ざした、生きることに連動した「ホンモノの学び」でないと、もはや通用しません。
それを一番よく知っているのは、学びの主人公である子どもたちです。
保護者も同様、「いま、学校が文化後進になっている感は否めませんし、実際にそうなっています。でも、学校が持っている他に無い力は、人と人を繋ぐことや集団と自分の有り様を体験させ、より豊かな創造ができるように導けることだと思います」とおっしゃってくださっています。
 
今こそ、学校の門を広く開け放ち、社会や日々の暮らしに溶け込んだ、たくましく生きるための「知恵と力と勇気」を育んでいける場を、単なる教科書や受験という狭い範疇で縛ることなく、もっと夢のあるワクワク感を語りながら創っていきたいと思います。
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井垣義稀