学校という世界

無目的で、無原則で、無計画な世界=学校。この隔離され閉鎖された世界から、よりオープンな世界へ、学校を変えていく必要がある。
学校という世界(リンク)より引用します。
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学校は、作られた世界に過ぎない。現実の世界とは違う。ところが、学校にいる人間は、そのことを自覚していない。それ故に、現実と虚構の世界が混同してしまい、作られた世界が真実であり、現実が、あたかも虚構の世界のように、子供達に錯覚せてしまう。
学校にあるのは、現実の世界の標本のようなものである。一見、現実を模倣しているが、現実とは、まったく違うものだ。偽物である。だから、なおさらたちが悪い。子供達は、偽物を本物と教えられて、あたかも現実を理解したかのごとく信じ込んでしまう。偽物を本物、本物を偽物と教え込まれたら、正しいものを見
極める眼は養われない。子供達の純真な、眼を潰して盲目にしているようなものだ。
正しい眼が養われなければ、正しい行いもされない。
実際の世界を観察し、新しい発見をすることは、学校では許されない。しかし、学問というのは違う。現実の世界を観察し、新しいものを発見するのが、学問である。学校で教えているのは、もう学問ではない。では、学校で教えているのは、何なのか。
教師は、万能の神のごとく存在している。答えは、常に、教師が用意するのであり、その答えは絶対である。用意した答え以外の答えをすることは、許されない。神である教師は、生徒、一人一人の運命をすら握っている。彼等の作り出す問題によって、生徒一人一人の人生すら決められてしまう。
学校では、この世の全ては、教科書によって決められていることになる。
教科書に書かれていることだけが正解であり、教科書に書かれていないことは、それが世間一般では、常識、正しいこととされていることでも間違いになる。子供達にとって教科書の中の世界が、現実なのである。しかも、学校の世界の住人は、自分たちが作り出した現実以外を認めようとはしない。
教科書に決められたこと以外正しくないとされれば、教科書がなければ何もできなくなるのは当然である。
しかし、現実の社会には、教科書などない。自分で判断し、解答は生み出さなければならない。これでは、学校の作り出した現実と本当の現実とが乖離し、世界観そのものが歪められてしまう。
このような教育を受けた者は、あらかじめ用意された答え、指示されたことしか答えられない。しかし、現実の世界に用意された答えはない。条件や環境が変われば、答えは毎日のように変わる。変化する環境や状況に即応し、適切な判断を下せる力をつけさせることが、本当の教育の目的である。
人生の悩みや大切な価値観は、教えられない。人生の岐路に立ち、苦しんでいる生徒達に対し、教師は無力である。
学校では、何もかもが、決められている。しかし、現実の世界では、そのようなことは希有な事である。
決められたことだけが正しくて、それ以外のことは、間違いになる。用意された答えの中から正解を選ばなければならない。そこには、創造性はかけらもない。
こんな環境に長くおかれれば、決められたこと以外できなくなるのが、当然の帰結である。そして、決められた答えがないと不安になる。逆に、どんな困難なことにぶつかっても、その事実を認識できず。誰かが、正解を出す事を期待するか。どこかに決まった答えがあると、現実を常になめてかかるようになる。予期せぬ答えは、許されない。
しかし、現実の世界は予期せぬ出来事ばかりである。だから、学校は、現実の適合できない人間を多く生み出すのである。ただ、それが大きな問題にならないのは、まだ、戦後の教育を受けた者が、決定を下さなければならない立場に立っていないからである。しかし、兆候は、すでにある。
試験に受かること以外、目的が、ない世界。学校とは、そういう世界である。
生きていくために必要な知識や技術は、何も学校では教えない。なぜならば、学校生活には、それらの知識や技術は、不必要だし、かえって弊害になると思われているからである。




村田頼哉