「部分」は教えることが出来ても「全体」は教えようがない

昔の職人の仕事場では、弟子入りした者はまともに作業をさせてもらえなかった。
それは、「技術を見て盗むため」と思っていたが、実際にはそれ以上の意味があった。目に見える技術=部分ではなく、物事の全体像を掴む⇒対象に同化する感覚とは、どういうことなのかを肉体化させようとしていたのだ。
以下、リンクより引用
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2017.08.05
「部分と全体」(部分を積み上げても全体にはならないのです)
日本では昔から、大工の仕事でも、武術でも、農業でも、商売でも、家事でも、何らかの技術を学ぶときには、まず、現場を見るところから始めました。
現代では、まず知識を与えられ、お手本を見せられ、丁寧に教えられ、お手本を真似しながら学ぶようになっています。間違ったら丁寧に教えてもらえます。
それは、学校のような場で行われている方法です。
でも、昔の人は、最初のうちは下働きのようなことばかりをやらされて、その仕事をやらせてはもらえませんでした。教えてももらえませんでした。
たとえば、大工の修行の最初の三年間はノミを研ぐことしかやらせてもらえなかったそうです。大工になりたくて大工の弟子に入ったのに、大工の仕事は教えてもらえなかったのです。
だからといって、その間、ただノミを研いでいるだけのような人はその先に進めませんでした。「おれはノミ研ぎを学びに来たんじゃない」と文句を言うような人は追い出されました。
いま、そんなやり方をしたらみんなやめてしまいます。
今の若者は懇切丁寧に教えてもらうことに慣れていますから。
でもそこにはちゃんと深い意味があったのです。
本当にやる気のある弟子は、ノミを研ぐ合間に、先輩や師匠が言っていることに耳を澄まし、やっていることをよく観察して、技や呼吸を盗んでいたのです。
そこにあるのは、受動的な学びではなく、能動的な学びです。
そうやって「大工の仕事はこういうもんなんだ」という「全体」を理解していたのです。
そして、大まかな「全体」が理解出来た頃から、「部分」の学びに入ったのです。
職人の学びでは「全体から部分」へと入っていたのです。でも、現代の学びでは「部分」があるばかりで、「全体」がありません。
だから「全体」を壊すようなことを平気でやってしまうのです。
それは例えば、平気で「デザインは素敵だけど住むのには不便」という家を建ててしまうようなことです。
昔は、子どもの遊びでも、小さな子は最初見ているだけか、特別ルールで扱われるだけで、まともに遊びには入れてもらえませんでした。
現代でそれをやったら「いじわる」になってしまいますが、でも、その「見ているだけ」の間に、「仲間と仲間をつなぐもの」が分かってくるのです。そうして、自分勝手を言わなくなるのです。
「遊び」は教えることが出来ても、「仲間と仲間をつなぐもの」は教えようがないのです。「部分」は教えることが出来ても「全体」は教えようがないのです。
以前、大衆演劇で有名だった人の内弟子になっていた人の話を聞いたことがありますが、演劇がやりたくて内弟子になったのに、演劇のことを教えてもらえずに、お茶を出したり、お風呂を沸かしたりとか、そういう雑用ばかりやらされていたそうです。
しかも、その雑用に対しても、理不尽な要求ばかりされたそうです。
例えば、「お茶やお風呂はいつも同じ温かさにしろ」と言われていたので、いつも温度計で温度を測っていたそうです。
でも、怒られるのです。
温度計で同じ温度にしているのに、「今日のは熱い」とか「今日のは温い」などと言われて叱られるのです。
それで非常に戸惑ったし、悩んだそうです。
でも、ある時、「温度計を基準にしているからダメなんだ」と気付いたというのです。師匠は温度計で測っているわけではなく、自分の肌で感じているのですから、師匠のからだの状態を基準にして温度を設定しないと「同じ温度」にはならないということです。
つまり「体感温度」を一定にしろということなのですから、夏と冬とでは温度を変える必要があったのです。からだを動かして汗をかいた後と、ジーッとしていたときとでも温度を変える必要があったのです。
そしてそのような「相手の状態を読む感覚」が、大衆演劇では必要な感覚だったそうなんです。それは、観客の温度を感じて演技をするということです。
現代人は、「じゃあ、最初からそう教えてくれればいいじゃないか」と思いますが、教えてもらった人は、そのことしか学ぶことが出来ません。
それは単なる「知識」です。
でも、自分で悩んで、苦しんで、考えてそのことに気付いた人は、他のことでも同じような気付きを得る能力を得ることが出来るのです。
お風呂で学んだことを舞台で使うことが出来るのです。
それは「一を知って十を知る」能力です。
教えてもらった人の場合は「一」は「一」のままで、「十」にはならないのです。ちなみにこの「十」は、「一の十倍」ではなく、「全体」という意味です。
これは造形でも同じで、人のを見て、自分の頭で考えて、失敗を繰り返しながら作ることが出来る子は、応用が得意です。「全体」が見えているからです。
教えてもらわないと出来ない子は、「部分」しか見ることが出来ないので、同じ事を繰り返すことしか出来ません。部分しか見えない子は、不安が強いので、新しいことに挑戦することも出来ません。
このようなことは子育てでも同じです。
ちなみにシュタイナー教育でも「全体から部分へ」という方法を取っています。せっかく教えたことなのに「忘れてもいいよ」と言うのはそのためです。(むしろ忘れさせようとします。)
でも、「部分から全体へ」という考え方に慣れてしまっている現代人には、そのやり方が理解出来ないのです。
ちなみに、「部分」をどんなに積み上げても「全体」にはたどり着きません。
手足や内蔵や骨などの全てのからだのパーツをつなぎ合わせても、「生命ある存在」にはならないのです。
まず全体を統括する「生命」があって、その必要に合わせて、後からそこに手足や、内蔵や、骨格といったパーツが生まれてくるのです。
そういう学び方を現代人は忘れてしまいました。
30年ぐらい前にシュタイナー教育に出会った時、「シュタイナー教育にはそれがある」と気付いて、「ここには本物がある」と思ったのです。
でも、「本物」は分かりにくいのです。
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島健男