無知な頭で評論することに価値を置く現在の国語教育

国語力を鍛えるとは、対象への同化力を鍛えること。つまり、題材の文章から、作者はどんな状況で何を考え?どう判断したのかを、相手の置かれた状況に同化して読み取ろうとする中で、それに必要な語彙も論理性も身についていく。
ところが現代の国語教育は、無知な頭で評論だけすることを推奨し、同化に必要な謙虚さを教えない。その結果、近代思想の価値そのままの、主張するだけで何も生み出せない人間を量産して行く。
以下引用
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近年の初等国語教育への疑問
(リンク)
先日ある先生から伺ったのですが、最近、小中学生の国語力が、極端に低下しているのだそうです。
これは文部科学省の小学校教育指導によるもので、国語教育において、子供たちに読解力をつけさせることよりも、感想を述べることに比重が置かれるようになったことが理由なのだそうです。
どういうことかというと、昔は、国語教育では、文字の読み書きもさりながら、読解力を付けさせることに比重が置かれていました。
ですから子供たちは、まず、教科書に書かれた文を理解し、その理解を助けるために文法や漢字を習いました。
文には必ず書かれた目的があります。
ですから国語教育は、子供たちが、その筆者の意図をいかに汲みとることができるようになるかが問われたのです。
ところが現代の初等・国語教育は、子供たちはすでにあらゆる知識を持って生まれてきているという仮説に基づいています。
ですから国語教育においても、その文を書いた筆者がどのような意図を持って書いたかよりも、そこに書かれたものについて、子供たちが何を感じるか、という視点が第一にされているわけです。
と、このように申し上げますと、「それはそれで良いのではないか」と思われるかもしれませんが、十分な読解力が育っていないうちに、「文から何を感じるか、どう思うか」と問われれば、いきおい子供たちは、その文の全体の趣旨ではなく、文章の一部や単語を切り取り、その切り取った部分を、自分目線で「評価」や「評論」をするようになります。
早い話、たとえば、
「私は琵琶湖に行ったとき、その風景の美しさに感動し、ひとつの和歌を思い浮かべました」
という文章があったとすると、昔の教育なら、そもそも筆者はなぜ琵琶湖に行ったのか、琵琶湖の風景はどのような点が美しいのか、そこから感動する心とは何か、筆者はどのような和歌を思い浮かべたのだろうかといった、文意から様々な事柄を察しながら、洞察力や情緒性を養おうとし、そのために必要な文法力や読解力が育成されていたわけです。
ところが近年の初等教育では、読んで君はどう思うかに力点が置かれます。
すると、
「琵琶湖に行ったから感動したのではなく、そもそも行く前に調べるべきだったのではないか。
「何をもって美しい風景といえるのか、琵琶湖のどこが美しいのかが書かれていないからわからない」
「和歌を思い浮かべるという発想が古い。私なら映画のシーンを思い浮かべます。」
あるいは、
「感動したいなら、私はエグザイルのコンサートが良い」
「全体を見れば美しい風景でも、近くにはきっと虫が飛んでいてきも〜い」
「和歌を思い浮かべたのは気取っている。J-POPで良いじゃん」
要するに、文章の全体ではなく、文の部分を切り取って、その部分に反応するようになるわけです。
そして、それがいまどきの「国語力」になっているわけです。
つまり、児童たちが教科書や筆者の書いた文章を評価しているわけです。
なるほど考えてみれば、いまのテレビなどのメディアがそうです。
事件や事故の報道には、必ずコメンテーターの評論や評価が付属します。
視聴者は、その評論や評価を視て、それをまた評価し、感想を述べます。
腹が立つとか、納得できるとかです。
それを友達に話すと、その評価をまた、友が評価評論します。
政治関連なら、「総理がこのような発言をしました」という報道自体が、総理の見解の全体像ではなく、部分を切り取った形で行われます。
つまり報道そのものが、バイアスのかかった評価評論になっています。
そしてその報道を、コメンテーターたちが、口々に論評します。
論評には、オヒレハヒレががついて、総理の意向や発言の趣旨などどこへやら、全然別な意味の発言のように印象づけられます。
視聴者は、それを観て、また評論・評価しています。
いまの日本は、まるで「一億総評論社会」です。
そうなるしかないのです。
学校の初等教育自体がそのようになっているからです。
その結果、
<長文の読解力が育まれない>のです。
つまり、長い文章を読んでも、理解できない。
本来なら、読んで筆者の趣旨意向を理解し、その上で、自分の頭で考えるという順番になるはずが、読むこと自体が、評価評論するためになっているのです。
相手の意見そのものが理解できない。
国語教育は、すべての科目のもとになる基礎教育です。
はたして、そのような国語教育を受けたこれからの日本人が実社会や外国に出て、果たして通用するのでしょうか。
思うに、すべてではありませんが、テレビに出ている評論家やコメンテーターの多くが、普通の実社会では通用しない(真面目に働くことのできない)タイプの人たちのように思えます。
そのような人たちが、テレビに出て法外な出演料をもらい、日本社会のリードオフマンとなっていることが、果たして「神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ国体ノ精華ヲ発揚」する人材群といえるのでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。