江戸の奇人変人

奇人変人と呼ばれるのは、当時の常識=固定観念を突破した人たちで、ある意味、「己の信念を貫きとおした=追求し続けた人たち=天才」といえるかもしれないですね。
だから、江戸時代の人々は、奇人変人を受け入れ多数の随筆に書きとめたのでしょう。
同時に、多数の奇人変人を生み出したのは「内発的欠乏」を阻害しなかった寺子屋や大衆に「肯定視力」に驚きを覚えます。
そんなことが感じられる「江戸の奇人変人」を紹介します。
リンク より
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動乱の時代には、英雄の武勇談が語られますが、平和な時代が長く続くと変な人々が出てきます☆
そんなあたりをまたまた杉浦日向子さんの一日江戸人から紹介します。
江戸期には、奇人の奇行を書き留めた随筆(エッセイ)が多く残っているそうです。
江戸初期に有馬涼及(ありまりょうきゅう)と言う医者が、嵯峨野(さがの)で見た桜の大樹を大金を投じて、いざ自宅へ運ばせたら、庭が小さくて木が入らないそうです。
涼及は少しも慌てず「良い良い、寝かせておけ。」と桜を庭いっぱいに横倒しにしておき、自分も座敷で寝転んで愉しんだそうです。
またあるとき涼及が百貫もの高価な茶碗を買ったと言うので友人が見にきました。
茶など飲みながら世間話をして、友人はおずおずと「秘蔵の品でもあろうがぜひ一目…」と切り出すと 「なに、あんたが今飲んでるソレじゃよ」と涼及が答えたので、友人はびっくりして呆然としたとか……。
同じように茶人で、京に住む桜木勘十郎と言う人は「縞好き」という奇人だったそうです。
衣類持ち物は言うに及ばず、家具調度、住居、庭の果てまで縞模様に徹し、人からは「縞の勘十郎」と呼ばれていたそうです。
利害に関せぬ、天性の奇人というのもまた、現れました。
楽阿弥(らくあみ)という風来僧は、一文無しで街々を説法して歩いていますが、彼の説法が面白いから思いのほか喜捨を得て、ずいぶん金持ちになってしまったそうです。
すると楽阿弥は人を集めて一晩大名のように大盤振る舞いをして派手に遊び、翌日からはまた無一文の僧として街々を歩いたそうです。この人は趣味で貧乏をやっているようですね。
こう言った愉快な奇人達の中に世間に認められず悲憤の生涯を閉じた学者・平賀源内(ひらがげんない)も混ぜられてしまったのは気の毒としか言いようがありません。一般に江戸の人は源内を「奇人の親玉」のように扱っていたそうです。
彼の大発明「エレキテル」も見世物の「世紀のショー」としか見なされなかったそうです。
科学者達を奇人と呼ぶのは「わけのわからない道に通じている」という点が奇に見えたからでしょうか。
幕末の風雲急を告げる時代にも、太平の尻尾をつけた奇人剣客が輩出しています。
近藤勇の養父・近藤周助は無類の女好きで「女が見ていないと張り合いがない」と言って、道場に妾(めかけ)を座らせていたそうです。堅物の勇の渋面が見えるようですね。
おしまいに、五尺竹刀(当時の通常は三尺三寸)をひっさげて、江戸中の道場を荒らしまくった剣客・大石進です。
通常より一尺七寸長い竹刀で(しかも大石進はかなりの長身だったそうです)立ち合った途端相手を突いて一本をとったそうです。この大石の登場以来竹刀の長さが三寸長くなったという話です。
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加藤俊治