学びとは“没頭”である。もう「学校」は必要ない。②

①の続き・・・
【学びとは「没頭」である】
★何のために何をするのか、どんな風にするのか、すべてを自分で決め、自ら責任を負いながら突き進む力。新しい時代を楽しく生きるために必須のこの能力を、僕はシンプルに「没頭する力」と呼んでいる。
「学び」という言葉の定義について堀江さんは、「学び」とは、没頭のこととされています。
脇目もふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと。数学や英語、料理、ダンス…… 対象はなんであれ、その人が心から没頭できていれば、それを「学び」ととらえられています。
未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてが学び。だから、場所は学校や企業に限定されないし、正解もいりません。
★「学び」は常に能動的で、すべては、「自分で切り拓いていく」営みなんだと言われます。
没頭している人は、一日中それについて思考をめぐらし、新機軸を思いつきます。失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程も含めて全容を楽しむことができます。
学びは、没頭のなかにこそある。誰かに言われてする「お勉強」のなかには学びの本質は存在しません。
本のなかで堀江貴文さんが、東大受験の際に英単語帳を一冊丸々暗記された話が載ってるんですね。
それに取り組めたのは、自分から「単語を暗記しよう」と決意したからだと。自分で決めたペースで暗記をすすめた。すると、まるでゲームにのめりこむように、その暗記作業に楽しく没頭できた、とありました。それを読んでね、
星山海琳 さんが、12年間の勉強( ⇒ 12年間の勉強が2ヵ月半?〜小中高には行かないで大学に行った娘の話.高認篇 )をしていたときにみせた、彼女の、新月のような浄らかな美しさをおもいだしたんです。
最高におもしろい※遊びだったんでしょうね。
夢をみているだけじゃ叶うあてのない望み。それを実現するんだと、抑圧や評価のない野良に咲いたカラダが遊学の自由をたのしんでいました。
あ、わたしが使う「※遊び」という言葉は、堀江さんの言う「没頭」と似ているものです。
わたしもまた、遊びは重要な学びである、とおもっています。
その遊びには、勉強も、あそび(← 「遊び」と「あそび」をわかりやすくするため、多数の人がとらえている遊びのほうを今だけ ひらがなにしておきます)も含まれます。
学校で習う教科の勉強と、ゲームはどちらも等しく遊びであり、重要な学びである、という考えをもっています。
自分の興味に基づいた、自分にとって好きな遊びの活動は、誰かが、何かが、邪魔をしなければ、創造する能力を開花させる真剣な学びです。
遊びによって育つもの。創造力、集中力、思考力、洞察力、行動力、実践力、能動力、忍耐力、体力、技能、個性、自主性、主体性、協調性、自省心、愛他心、etc。いずれも 豊かな知恵を生む貴重な財産 です。
そう。誰かが、何かが、邪魔をしなければ!
同じことを堀江さんも言われています。
学校という集団教育の場は、没頭を否定し、天才を否定し、オールBの常識※を植え付けていく洗脳機関なのである。
では具体的に、学校はどんな手段を使ってその洗脳を行い、すべての子どもをただの凡才に仕立てあげようとするのか。
「禁止」である。
(略)
あれをしてはダメ、これをしてはダメ、と禁止のルールを増やしていくことは、非情にコストの安い教育手法だ。教師たちは難しいことを考えず、ただ禁止の柵からはみ出した者を叩いておけばいい。
 
禁止のルールを十分に身につけた子どもたちは、晴れて常識人として、そして凡庸なジェネラリストとして社会に出ていくことになる。そして彼らは、大人になってからも自分で自分にブレーキをかけ続けてしまうのだ。
  『義務教育の「常識」を捨てろ!好きなことにとことんハマれ!』
リンクより




井垣義稀