毎日数多くの異能を潰している学校教育

今年もまただんだんと大学入試が近づいてまいりました。
AO入試、指定校推薦入試、普通の推薦入試、センター試験、私立大学一般入試、国公立大二次試験・・・
この日程を見てなんだか懐かしいなと感じる方も数多く居られるのではないでしょうか。
10月の半ば現在、季節は推薦入試シーズンになります。
小論文と面接の練習に余念がない何割かの仲間たちを横目にして、残り3か月を切ったセンター試験に切迫感を持っている多数の高校生たち。
そんな高校生たちの間からふと漏れる言葉は、毎月毎月変わり、日に日に現実味を帯びてきます。
>「うちの高校は文系には良い学校なんですよね。」
進学高校に通う彼は先月は逆のことを言っていました。
●なぜ理系には良いから文系には良いに変わったのか?
受験生ですから、学校の受験対策授業の進度や深度についてのことであることは確かです。つまり学校の予備校的要素について、理系は数学や理科に関する発展問題が毎時数問扱われるのに対して、文系の語学や社会科に関する知識詰め込みが毎時多数扱われるものですから、理系の子にとっては文系の学習方法が素早く効率的に見えるのでしょう。
しかしよく考えてみれば、もし文系が知識詰め込みだけであるならば、問題集と答えだけしか要らない、学校は要らないということになり、うちの高校は文系には不要な学校と言うのが正しいのです。
●ではなぜ相対的に、理系にとって良くない学校というふうに評価が下がったのか?
これは理系の子たちの一部が、大学の本を読んだり、受験の参考書なのだけれど高校を超えたような記事やその先の就職に関する記事を読んだりしており、高校に居ながらにして彼らのアンテナがその先、さらに先へとバイパスを通り抜けていることを意味します。
ところが高校は相変わらず目の前のセンター試験、二次試験のことしか言わない。高校生たちが自ら開いた社会への風穴に蓋をし、最近はやりの言葉で言えば、無数に芽生えている「異能」を摘んでいるしまっていることになります。
樹木思考で言えば、子どもはやはり社会と言う幹から枝葉を生やすように出来ています。
学校の軍事教練を幹としたとしても、学歴信仰を幹としたとしても、本当の幹は身近な人々、広い社会、これらの両輪からなる幹にはかなわない。
だから小学校でそこから枝が生える、中学生で生える、そして多くの高校生たちが3年生になって疑問を顕在化させる。
学校は子どもが自ら生やした枝を枯らそうと、10年前くらいから、あり得ないくらい低劣な内容の宿題を大量に課すようになりました。模試の前には模試の過去問を何年分もやらせる。いまどきは小学校でも文科省の全国学力テストの過去問をしつこくやらせます。
特に理系の子が星空を眺めて抱くような興味などは過去問をいくらやっても解決しません。そう言う意味で、うちの学校だけが理系に良くないのではなくて、ほぼ全ての学校教育は理系に良くないと言うのが正しいのです。
●文系にとっても技術系にとっても芸術系にとっても同じこと
子どもは別に学校で食べているわけではないので学校にそこまでのこだわりは本当は無く、他のもっと広い世界で生きていきます。
しかし、
子どものあれをやろう、は学校では扱われない。
逆に、あれをやろうから遙かに遠くの教科学習が果てしなく遮っており、まるで数学ができないと人間として劣っているかのような現実的な低評価、不合格を叩きつけられる。
などのために広い世界にバイパスされたアンテナは細っていく。代わりに、生徒という立場から見せられる角度1度の選択肢から神経質に適性を測定するようになる。
ような感じでこの季節、精神的なストレスから生じる体調不良が進学校ほど多くなります。





佐藤英幸