人との心理的な距離をとる自由がほとんど無い学校

リンクより引用します。
※※※以下、引用※※※
本の学校は、生徒の心と心が響きあう「聖なる共同体」を理想像として教育のあり方が設計されていますから、生徒に長時間にわたり集団生活を送らせ、それまで縁のなかったクラスメート全員と「仲よく」することを強く求めます。すべての活動において「協調性」が重視され、私たちの暮らす市民社会では許されている「人との心理的な距離をとる自由」がほとんど認められません。
このような集団生活のあり方は、第二次性徴前の小学生の時期には、それほど大きな問題がないかもしれません。しかし、囲い込まれた人間関係のなかで人と距離をとれない状況は、第二次性徴以降の子どもにとっては危険な環境なのです。原始時代であれば彼らは立派な大人であり、おかれた社会環境によっては大人と同じような残酷な感情をもち、残虐(ざんぎゃく)な行為ができる能力をもっているわけですから、外部の社会から切り離して狭い集団に閉じこめ、「ベタベタ」と密着させる生活環境がいじめを蔓延させる大きな要因といえるでしょう。
(中略)
これに加えて日本の学校は、暴力的ないじめが起きても市民社会のルールや法律が入りにくい空間になっており、とりわけ警察の介入を教師や保護者が嫌う傾向にあります。警察に通報した保護者が、のちに学校や他の保護者から批判、非難されるといったことは少なくありません。暴力的ないじめを受けている被害者の生徒でさえ、「警察に」という発想をもちにくいのです。
(中略)
いじめ問題が起きると、いじめる要因として加害者の家庭環境が指摘されますが、実際には、とりたてて問題のない家庭である場合が少なくありません。家庭環境が人をいじめる心理に影響しないとはいえませんが、そうした子どもが通う塾やスポーツクラブなど、学校以外の場所でいじめが歯止めなくエスカレートするのをあまり聞かないことを考えると、学校という場の環境にもっと注意を払う必要があると思います。
(中略)
私たちはふだん、「いい人だな」と好意をもつ人には近づき、「苦手だな」「嫌だな」という人からは距離を置いて対人関係のバランスを保ちながら生活しています。対人距離の調節は、相手の存在を認めつつ、自分らしく生きる上で重要なものです。
しかし、すべての活動において集団生活を送り、「協調性」が重視される日本の学校では、人との心理的な距離を自由にとることが難しいため、子どもたちに、ある特徴的な人間関係の築き方が見受けられます。実は、それがいじめに歯止めがかからない問題と深くつながっています。
教室でクラスメートと一日じゅう顔をつきあわせてすごす子どもたちは、「集団から外(はず)れる」ことをもっとも恐れ、何よりも優先して「みんなと仲よく」しようとします。なぜなら、対人距離の調節が難しい教室では、強い者と弱い者といった「身分」関係ができやすく、「人間関係をしくじると自分の運命がどう転ぶかわからない場所」であるからです。
2007年ごろに「KY(ケーワイ)(空気が読めない)」という言葉が流行しましたが、まさに子どもたちが教室のなかで重視しているのは、その場そのときの「みんなの気持ち」、いわば「ノリ」です。ノリをつくりだす生徒の力は強く、ノリによってもたらされる集団の全能感、高揚感が善だとすれば、それを壊すことは悪いことにさえなります。
たとえば、だれかの持ち物に嫌がらせをし、その生徒が悔(くや)しがるのを見てクラスの大勢で笑うといった「遊び」=「ノリ」に同調することがためらわれたとしても、そのノリに逆らうことはなかなかできません。大勢から「浮く」ことは孤独に直結するばかりか、いじめの新たな対象になりかねないからです。
ですから、子どもたちはクラスのなかでだれが無視されているかなど教室の現況を読みとり、うまく立ちまわって自分が標的にならないようにしています。ただし、表面上は悪ノリに合わせて笑っていたとしても、その心は陰鬱(いんうつ)に違いありません。いつも場の雰囲気に神経をとがらせていなければならないのは苦痛であり、他人の顔をうかがいながらすごす日々はたまらなく不安なはずです。
昨今のいじめの実態を見聞きすると、大人は現代の子どもを無軌道で無秩序のように思いがちです。しかし、現実は逆です。彼らは無軌道で無秩序でもなく、決して幼児性が強いわけでもありません。あくまでも「学校的」な秩序のなかで、「学校的」な現実感覚を生きているだけなのです。
※※※引用、以上※※※




野崎章