学校に行けないことが問題なのではなく、学校を選べないことが問題

従来の学校教育は、ひとつの教育の在り方だから、それが合う子もいれば、合わない子もいて当然です。学校に行けないことが問題なのではなく、学校を選べないことが問題なのでは、と思っています。
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●学校教育に、なんの疑問も持たない人へ
なぁ~んて制度になったら、日本中の老若男女がたちあがって、そりゃあ すごい反対の嵐が起こるだろうな、とおもうのです。
しかしこれと同じ体制で行われている学校教育には、なんの疑問も持たない人がいることに、ふしぎさを感じます。
8歳の子全員にたったひとつだけのサイズの服をつくり、それに合わなければ、食事や運動量を増やしたり、減らしたりするよう強制されます。
背が低い子は、頭と足を引っ張られ、伸びすぎた子の頭には重石がのせられるのです。
そうして子どもたちを商品のように仕分け、規格に合わない子には恥をかかせ、権威を発揮します。
親には、子どもを 「正しい大きさ」 にしておくことがいかに大切かを諭し、家庭でもしかるべき処置をするよう指示をよこします。
●学校教育のはじまり
明治18年(1885年)、初代文部大臣となった森有礼さんは、教育に経済の概念を入れました。
他国との激しい経済競争に打ち勝ち、富国を実現するためです。
そのため教育制度がひかれ、学校が作られました。
そうして森さんが確立しようとした人材育成・経済主義教育は、いまもつづいています。
●「社会性」とはいったいなに?
教育目標によく見る「豊かな人間を育て…」は、 決してA君がA君として豊かになるためのものではありません。
それは国家が望む人間になるように豊かにすることを意味しています。
規格品に適合させることが国が定義する 「社会性」です。
だから規格品に合わない子は、「問題児」として扱われたり、「学習障害」なんて呼ばれたり。
不登校の子にはダメな子扱いをして、自分は無能な人間なのかと心的葛藤をくり返えさせます。
 
●「自主性」とはいったいなに?
また、「自主性」の大事さを教訓に掲げない学校は見当たらないだろうけど、学校が認めるのは、あくまで与えた洋服にピッタリと合致する考え方であったり、行動だったりをしたときだけの極めて限られた領域にすぎません。
自ら勉強をした。この自主性は認める。
自らゲームをした。これもまた自主性であるが、そうは捉えません。
どんなコタエであれ「自分で考えて行動する」、それが「自立」だとおもうのですが。
●いま自分がもっている価値観は、本当に自分の価値観?
「子どもはこうあるべきだ」とエライ人が言うと、「そうか、そうか」とならいます。
“ものさし” の目盛りに合うように。従うように。子どもをなんとかしようとします。
なんとかならないと、焦ったり、、 悩んだり、、
けれども国の都合にあわせて造った “ものさし” に対して、その尺度は ほんとうに そうなんだろうか?
子どもをそれに合わせようとするおとなの行為がヘンなのではないだろうか?
企業的価値観の教育を基準にした子育て、その行為は、子どもの存在(生き方)を否定してしまいます。
学校に行けないことが問題なのではなく、学校を選べないことが問題なのでは、とおもっています。
家庭にも、どこにも、お気に入りの学び場がないと言うのであれば、創るのもひとつの選択です。
従来の学校とは異なる学校は、もう日本のあちこちにあります。「本気」があれば、 学校は創れます。
死に逝く教育なんてどう考えたって おかしいです!!
「学校 = 教育」の図式に風穴を開けていきたいんです。
世間の大半の人たちが信じている考え方に疑問をもつことは、非常に難しく、勇気がいるけれど、まずは自分を感じる (観じる)ことから はじめてみませんか。
リンクより




井垣義稀