「現代人」にコンバートされていく子ども

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冒頭リンク先で安達さんが書いていらっしゃるように、子どもに「スケジュール管理」のタスクを身に付けさせるのは簡単なことではない。
ただ、この課題を遂行するには、それ相応のコストが求められる。
つまり、子供が遊んでも、ぼんやりしても急かさずに待つと、朝の支度に一時間以上の忍耐が必要になる時がある。
正直に言えば、脅しつけて何かをさせるほうが遥かに簡単であるので、その誘惑と戦うのが大変だ。
ただ、これを続けると、子どもがグズグズしているときには、脅すのではなく「一緒にやろう」が最も効果的であることもわかった。
だから、一緒に課題をこなす。そこでまた、時間がかかる。
もちろん楽しくもある。だが、自分の子供の自主性、自律を促すため、と思わなければ、正直やってられない。
だから、つくづく思う。
教育とは本質的に、短期的な費用対効果は全く合わないものであると。
ここで安達さんが述べているように、子どもの自主性や自律性をうまく養っていくのは大変だ。
親の側が急いてしまって脅したり急かしたりすれば、ちゃんと身に付かない。
親御さんだけで取り組めば上手くいくものではなく、幼稚園や学校の雰囲気、先生の指導、ときには教材をも活用しながら身に付けさせなければならない。
それでいて、自主性や自律性がしっかりと根付くのは何年も先の話ときている。
子どもに「スケジュール管理」を身に付けさせるために、現代人は小さくないコストを支払っているのである。
さて、ここから逆のことを考えてみよう。
現代人は、大きなコストを強いるかたちで、子どもが幼い頃から「スケジュール管理」を身に付けさせている。
ということは、本来の子どもは──いや、大人も含めた人間全般は──「スケジュール管理」なるものを身に付けていなかったのではないか。
「スケジュール管理」について歴史を紐解いていくと、13~14世紀に普及していった時計の発明に辿り着く。
人間は、太古の昔から自分のスケジュールを管理していたわけではない。
ルイス・マンフォード『技術と文明』によれば、「時間」という概念は、機械的時計の発達と普及によるところが大きいのだという。
機械的時計が登場する以前の人間には、今日でいうところの「時間」という概念が浸透していなかった。
時計が普及する以前の人間は、太陽が昇るとともに働き始めて、日が沈むと働くのをやめていた。その日の気分に仕事が左右される人や、昼過ぎには仕事をあがってしまう人も珍しくなかった。
今日でも、途上国の田舎に行けば、時間に対する感覚のアバウトな人が少なくない。
(中略)
今日では、幅広い職種においてスケジュールの自己管理技能が求められている。
スケジュールの自己管理技能を欠いている人は、社会人として問題があるとみなされかねない。
 
現代人は「極めて訓練された存在」
このような歴史的経緯を振り返ると、私は、現代人とはつくづく訓練された存在であるなぁ……と思わずにはいられないし、その訓練の積み重ねに割かれたコストや負担にも、思いを馳せずにはいられないのである。
子どもにスケジュールの自己管理技能を身に付けさせるのは大変だが、その大変さは、人類が「時間」という概念を生活に導入して、それによって高度な社会生活を実現してきた代償なのだと私は思う。
子ども達が家庭や学校で苦労しながら身に付けていく自己管理技能は、数百年かけて達成してきた人類の進歩にキャッチアップするためのものだ。それは、確かに大変なことなのである。
そして幼稚園や学校のたぐいは、本来は時間に対してもっとアバウトであったはずの人間を、現代人として訓練し、現代人として完成させるための社会装置なのだと痛感せずにはいられない。
読み書き算盤を教えるだけでなく、人間を現代人として作り直すための社会装置としての幼稚園。学校。そして家庭。
(中略)
我が家の子どもも、スケジュール管理を身に付けるのには四苦八苦しており、現代人の一人として、もどかしさを感じることもある。
けれども、子どもは最初から現代人として生まれてくるのではなく、教育や訓練を通して、現代人に「なる」のである。
数百年ぶんの人類の進歩を身に付けていく子どもを、むやみに急かすわけにはいくまい。
と同時に、スケジュールの自己管理技能を身に付けていく過程が、現代性の獲得であるとともに、本来の人間性の喪失かもしれないことに、私は少しだけ哀惜の念をも抱く。
時間やスケジュールという概念が当たり前になっている社会に生まれ落ちた子どもらは、そこに適応していくしかない。
「時間」に対して無頓着な生き方など、もはやあり得ないのである。




匿名希望