大学はお金と時間のムダ

一昨年、堀江貴文氏のインタビュー記事が話題になった。
実務に役立つ教育を一切していない大学に行くのは「お金と時間のムダ」と発言し、物議を醸したのだ。

 著者のブライアン・キャプランジョージ・メイソン大学の経済学部教授で、出版したのはプリンストン大学。本来ならば制度の保護と充実を求める立場にありながら“内部告発”を行っているのだから、そのメッセージは深刻だ。

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◆これ以上教育に予算を使うのはムダ
キャプラン氏がまず取り上げるのは、巨額の予算だ。アメリカでは、あらゆる年代の教育を総合すると年間1兆ドルもの税金が注ぎ込まれているという。これは国防費を優に超える額だ。キャプラン氏はこの状況を「教育過多」と称し、大幅なカットを主張している。

  こうした意見に対しては、“教育の縮小は人的資源の枯渇につながる”との反論があるだろう。しかし、この点への疑問こそが本書の核なのだ。教育が人材を育成すると考えること自体が希望的観測に過ぎないと、証明していくのである。

  彼の視線は極めて現実的だ。「大学は職業教育の場ではありません。」(『大学教育について』J・S・ミル著 竹内一誠訳 岩波文庫 p.12)などと言って、教養の復興を訴えたりはしない。むしろ、現在の大学が就職予備校でしかない現実を受け入れつつ、もはやその機能すら果たしていないことが問題だと指摘するのだ。
」 つまり、就職の際に企業が求めるのは、テストやレポートで大きなミスをせず、社会的にも好ましい(Social Desirability Bias)積極性を持ちながら和を尊ぶ学生であることを証明する成績表と卒業証書だ。

  そこでは、何をするにせよ要領よくこなし、忍耐強い性格の持ち主として4年間を滞りなく過ごしたという印こそが重要なのだ。よって、卒業した大学のレベルと成績表に記された「A」の数が物を言う。

  当然、それは実際的な能力とは何ら関わりを持たない。かといって、「A」の数だけ教養が深まったことを意味するのでもない。にもかかわらず、このペーパーの獲得をめぐり莫大なマネーが動く。それが教育制度という名のラットレースだとキャプラン氏は喝破しているのだ。



◆「いい大学を出たぐらいで、いい思いができる」現実こそが致的」
この点では日本とよく似ていると言えるだろう。日本人は欧米が個性を尊重する教育を行っていると思いがちだが、実情は異なる。英エコノミスト誌が運営するサイト『1843』の記事「HIGH-PRESSURE PARENTING」にもあるように、子どもたちは幼いころから優秀で好人物であると印象づけるための競争を強いられているのである。

しかし、キャプラン氏はそうした過度な競争が教育の価値を下落させていると考えている。

 <大学で良い成績をおさめれば好条件の職にありつけるのは確かだが、しかしそのことで質の高い仕事をするための心得を学べるわけではない。もしあらゆる人が学位を持っていたとしても、全員に恵まれた働き口が約束されるわけではなく、大学卒業という資格が急激なインフレを起こすだけの話だ。

  教育によって人生の成功を目指すモデルケースを推進しようとしたところで、広まるのは教育であって、決して成功ではないのだ。

ここで、冒頭の議論に戻りたい。堀江氏もキャプラン氏も、大学が実務に役立つ教育を一切していないとする点では一致している。

  しかし、キャプラン氏はその先を見据えているのだ。たとえ実務的なスキルや知識がなかったとしても、ハイステータスな卒業証書さえあれば個人レベルではそこそこいい思いが出来てしまう。そのことこそが社会にとって致命的な欠陥となり得るのだと指摘しているからだ。


◆安倍首相のいう「教育の無償化・拡充」って必要?
個人の生活レベルを高めるための資格証明書をめぐって、激しい競争が繰り広げられる。すると、本来は社会に還元されるべき能力が、よりよい暮らしを求めるという目的のためだけに自己完結させられる。そうしたせせこましい風潮に拍車をかけているのが、他ならぬ教育だと論じているのだ。

  近年、自民党は教育の無償化・拡充を政権公約に掲げ、さらなる人材育成を図ろうとしている。人的資源こそ国家の根幹だと考えているのだろう。

  けれども、キャプラン氏はこう言う。

 <全ての人がより良い教育が受けられるよう補助金を給付することは、コンサートの客に対して“立ち上がればもっとよく見えるよ”と促すようなものだ>(Introduction p.6)

  そう、結局誰もステージが見えなくなってしまうというわけだ。

  闇雲に教育の拡充を目指す先に、一体どのような国家像があり得るのだろうか。教育という言葉の持つ道徳的に心地よい響きが、思考停止を招いていないだろうか。

  そうした前提を問い直す意味でも、本書の持つ意義は大きい。


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井垣義稀