不登校、選んだわけじゃないんだぜ!

不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』という本の書評。どの書評を読んでもなかなか答えがない。不全が残り続ける。そういう風に感じた。ただ、以下の一節は現代社会に圧倒的に足りないことを示唆しているように思う。

>「一番望ましいのはよく理解できないが理解できないものがそこにある、ということを認めること」
>このメッセージに、私は肩をつかまれて、がくがく揺さぶられるような衝撃を受けた。
>――相手を「理解」しなければならない、「わかる、わかる」とうなづいて、あいづちを打って…、
>それが人とのベストのコミュニケーションなのだ、と思っていた。

現代社会の家庭、学校、企業・・・あらゆる集団、組織が本物の居場所になっていない。本物の仲間関係になっていない。そういうことを示しているのではないだろうか。

だから、理解できないものを認めるしかない。
決して、不登校を選んだわけではない。
現代社会のままでは不登校を選ぶしかない。
子供たちの生きる活力を奪う危機的な状況にあるということだ。
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不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』
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80年代の「不登校もひとつの生き方、選択である」という考え方に、不登校の子供も親も救われてきた。
「ほんとうにありがとう。」と、貴戸さんは言う。
そして―――

「よくも言ってくれたわね。」

ぎくっ、としないか。

そして、もう一人の著者、常野さんはいう。
「登校拒否」を認める論理には、ひとつの物語がある。
「かつて、不登校でした。でも、今は明るい社会人です。」
あるいは、「学校に行かなくても、明るくのびのびやっています、そういう道を選択したのです。」
だけど、

リアリティのないハッピーエンドはもうたくさんだ。

貴戸さんは、こういう。
学校に行きたくない、行けない。いやだ、本当につらい。
だけど。
家で孤独を抱えているのもつらかった。
行けない、でも、行きたい。
どこにも逃げ場がない。矛盾だらけ。
私は、そんな「生き方」を「選択」したのか?
自分でも分からない。
だから、
軽々しく、「わかる、わかる」「理解できるよ」といわないでほしい。
そして、上野千鶴子のことばを借りて、こういう。

「一番望ましいのはよく理解できないが理解できないものがそこにある、ということを認めること」

このメッセージに、私は肩をつかまれて、がくがく揺さぶられるような衝撃を受けた。
――相手を「理解」しなければならない、「わかる、わかる」とうなづいて、あいづちを打って…、
それが人とのベストのコミュニケーションなのだ、と思っていた。
でも、不可能なのである。
わからないのである。
なぜ、この人がそんなことを言うのか、なぜ、あの人はこんなことをするのか。
当然だ。私の得てきたほんのわずかな知識と経験で、なにが分かるというのだろう。
だから、結局「あの人もイロイロ大変だから、しかたないのよね、わかるわ」と、お茶をにごす。
ちっともわかっていないくせに。
(以後略)
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(引用以上)

 

 

 

 

小平健介