群れ遊びの本質

子供の本来の仕事は「遊び」である。特に、群れ遊びは、社会に出てから最も必要とされる人間関係力を身につける場であり、遊びを通じて相手を思いやる同化力や、もっとおもしろくするためにはどうする?といった追求力を身につけることができる。

ただ、学歴収束による受験戦争の激化により、「遊び」=「悪い」という意識潮流が社会にはびこり、年齢に関係なくみんなで群れて遊ぶといった習慣はほぼ消滅してしまった。

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私は、いま60代に入っているのだが、小学校時代、学校から帰ると、カバンを放り出して、遊び場――原っぱや大通り――に駆けていった。そこには、遊びのリーダー、ガキ大将あるいは遊び仲間がいて、何の遊びをする、と相談して、草野球や缶ケリや馬とびやベーゴマやメンコやビー玉遊び等々たくさんの遊びをした。

ところで、なぜ、「群れ遊び」と言うかというと、この遊びは、特に組織されたものではない、ということに特色がある。地域の隣り近所の複数以上の子どもたちが、あそびが楽しいから、群れて遊ぶというやり方で、つまらなくなれば、すぐ「やーめた」と止めてしまう事が出来る遊びである。メンバーが足りなければ、足りないなりに工夫して、それでも足りない時には、「あーそぼ」と近所の友達を迎えにいって遊ぶ。それでも友達が集まらないと、できない、つまらないと、しょげかえる。だから、友達の必要性も強く感じる。

ここには、大人はいっさい入っていない。このことはとても重要なことだ。つまり、管理されていない、自主的な遊び、ということだ。子どもたち同士で話し合い、工夫して、その日、その時の、やりたいあそびを決めて遊ぶ。そして、「いれーて」と他の子がくれば、その子が入れるように、組み分けを変える。個々にいろんな事情でその日その日の参加できるメンバーが変化する中で、楽しい遊びをする。

この群れ遊びの、もう一つの特色は、からだ全体、を使って、全身で、肌と肌との直のふれあい、ぶつかりあいを通して、肌感覚・皮膚感覚を磨いていく、ということにある。「鬼ごっこ」で逃げる相手を捕まえたり、「手つなぎオニ」とか、馬になった人の背中にどんと両手を落として、飛び越える「馬飛び」とか、「おしくらまんじゅう」のように、からだごと押し合いへしあいするとか、「陣取り合戦」のように、相手の突きをかい潜ったり、相手を押し出して、防衛したり、というように、じかに相手との肌のふれあい、皮膚感覚・肌感覚によるつき合いを、遊びを通して身につける。

ケンカしても、言い合いしても、直に殴ったりしても、どのぐらい言えば、どのくらい殴ればいいのか、決定的な決裂になるのか、ならないのかを、直に皮膚感覚で体験するのだ。お互いの言い分はあるが、決定的なけんか別れでは、楽しい遊びができたくなるので、やがて、折り合うことも学ぶ。

そして、大人が入っていない、子どもたち同士の力の対等な間での遊びなので、それこそ、全力を出しきって、真剣勝負で遊ぶ。大人が子どもと遊ぶ場合、どうしても手かげんしてしまうが、群れ遊びでは手かげんなしの遊び、たましいのぶつかりあいの遊び、ということだ。つまり、別の言い方をすれば、たましいを出してつきあう関係が、群れ遊びを通してできている、ということ。

そしてそれは、当然、全身運動なので、敏捷性等の運動能力を、学校の体育授業以上に磨いてゆく。なにせ、小学校六年間、毎日数時間、休みの日は一日中、駆けずり回っているのだから。

端的に言えば、学校の体育授業は、放課後、子ども達自身が群れ遊びで駆けづりまわって身につけた運動能力を、かっこよくまとめて、その成果を運動会に示すことでしかない、といえる。その証拠に、群れ遊びが消滅したあとの、子どもの体力のガタ落ちは、ひどいものになっているのは、皆さんご存知のこと。学校での体育授業だけでは体力はつけられない。つまり、体育授業は、子どもの体力を育てるのに用をなしていない、ということが証明されたことになる。

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西本圭