学校における教育・学習を支える集団・コミュニティの問題・・・①

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── はじめに

(1)成長・発達によって、能力の一部は失われるのかもしれない
──猿個体の顔を区別する能力の消滅、外国語の音を聞き分ける能力の消滅
もう7、8 年前になるのでしょうか、新聞の小さな囲み記事に、生後6 カ月の人間の赤ちゃんは、サル個体の顔を見分けることができる、そういう調査研究結果を、イギリスのシェフィールド大学の研究チームが科学雑誌『サイエンス』に発表した、とありました。
研究チームは、生後半年の幼児30人と大人11人に、人間とサルの顔を見せて反応を観察。

【要旨】私たちの学習とは、私たちが所属し・所属しようとしている社会集団あるいはコミュニティへの参加過程である。私たちはその社会集団に所属し、そこの一員として認められ、生きていくために、その集団の文化を身につける。前近代社会においては、家族、地域、身分・階層、職業などの集団への参加・所属過程とその集団の文化の学習過程とが、明瞭に、不可分に融合していた。近代学校教育制度は子どもたちをそこから分離し、新に人間社会や国家社会の一員となるための教育・学習の過程を用意した。しかし、社会集団への参加過程としての教育・学習という視点からすると、かなり非現実的であったと言っていい。

そして実は、近代学校はそれ自体の、孤立し、独立した教育・学習過程ではなく、前近代以来の教育システムの並存に支えられて一体となって、はじめて学習過程を進行させることができたのである。

しかし1960年代を境として、前近代的教育システム、すなわち具体的現実的コミュニティへの参加過程としての教育システムは消滅してしまった。その結果、学校教育は支えを失い、孤立し、教育・学習過程成立の伝統的基盤を失ってしまった。現代学校教育の困難の根底はここにある。教育・学習過程を成立可能にするためには、子ども・青年の社会集団・コミュニティへの参加・所属の過程を、新しい形でつくり出さなければならない。子どもはそれを求め、必要としている。それはどこに、どのようにして可能なのだろうか。

── はじめに
1 ── 現代社会の学校と教育の困難
2 ── 近代社会の教育における社会集団の役割
3 ── 国という社会集団規模で課題・目的が見えた時代
4 ── 教育と学習を新しい形で再生させるためには、生きることと学ぶことの基地であり目的である集団・コミュニティをつくり出すことが必要になっている

こういう観察です。
見たことのない顔が出てくると、長い時間見つめて、見極めようとする傾向があるけれども、見たことのある顔については、時間をかけてみつめるということはない。そういう反応を利用して、時間をかけて顔の違いを見極めているかどうかを調べたのだそうです。

大人についての実験では、初めて見る人間の顔を見つめる時間は延びたが、初めてのサルの顔についても、以前に見たサルについても、見つめる時間に変わりはなかった。つまり大人は、サルの顔については個体識別ができなかった、ということです。

一方、幼児は、人間でもサルでも初めて見る場合、前に見た顔の場合より見つめる時間が長かったのです。それはサルの顔の違いがわかっていることを示す反応だということを表しています。しかし、さらに生後9 カ月の幼児で試したところ、サルの顔を見分けられなくなっていたというのです。

そこから、研究チームは「脳は、生後半年から9 カ月の間に、人間の顔を重点的に認識するように変化するのではないか」としています。

この実験結果については、いくつかの解釈が可能だと思いますが、人間が学習し発達していくということは、能力を獲得していくということだけではなく、一つの文化の枠組みを獲得することによって、その文化の枠組みから外れる能力は消えていく、というように理解することもできます。私たちは日本語を理解する耳を我ものにしていくとともに、それ以外の言語の音を聞きとる耳を失ってしまいます。

(2)発達・学習・教育は特定の社会集団への参入・組み込み過程
── 子どもは自分の生きる特定の社会集団の文化の枠組みを身につけていく私たち人間の、そして子どもの発達や学習や教育というのは、その人が所属している特定の社会集団の文化の枠組みを身につけていくことです。〈身につけていく〉というようにプラスの表現をすることもできますが、特定社会集団に組み込まれ、その文化の枠に囚われ、制限されていくと言ってもいいと思います。冒頭に挙げた例は、人間の子どもが、知らず知らずの間に、人間社会の文化の枠組みに組み込まれていく例ですが、しかし学習はそのような無意識的な活動であるだけでなく、意識的能動的な活動としても行なわれます。そのときもやはり、学習は、特定の社会集団への参加過程として、成立します。こういう例を思い浮かべてはどうでしょう。

家庭にも、学校にも居場所がない少年がいる。しかし誰でも居場所がほしい。そのとき彼は居場所を求めて非行グループに近づく。そこにいると楽しく、生きているという感じがする。彼にとって非行集団に入り所属することがどうしても必要なことになる。彼はそこにシッカリと所属するために、その非行集団の文化、つまり、服装、言葉遣い、考え方、価値観、遊び、必要知識と技・身体能力を、意欲的・積極的に自分のものにしていきます。
その同調行動に失敗すれば、彼はその集団から弾き飛ばされてしまいます。それがその集団に所属する過程です。

所属の必要性や必然性の全くない社会集団の文化は学習しないし、できない。集団所属必要性という基盤なしには教育できないということです。所属・参入する社会あって成立する学習であり、教育であるということです。
ここで私が特別に強調したいことは、

a.人間の文化学習は、自分が所属し、参入しようとしている社会集団の文化に組み込まれていくことであり

b.その社会集団への所属と参入は、学習者にとってどうしても必要なものと信じられ感じられていることでなければ、教育は成立しないということであり

c.つまり文化学習は、特定の社会集団への必然性をもった参入過程・組み込まれ過程として成立する、ということです。

 

 

 

加藤俊治