学校における教育・学習を支える集団・コミュニティの問題・・・⑥

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4 ── 教育と学習を新しい形で再生させるためには、生きることと学ぶことの基地であり目的である、集団・コミュニティをつくり出すことが必要になっている

子ども・若者たちの存在の意味と学習への意欲を支えていた生活がすっかり変ってしまってしまいました。人たちの中に位置づけられて生きることは、従来、子どもたちにとって当然のことでした。位置づけられるとは、拘束され・規制されることでもあります。また、位置づけは、従属的であったり、差別的であったり、抑圧的であったりすることも、しばしばあることでした。そうであっても、〈位置づけられること〉は当然のことでした。

しかし、1960年代以降の社会変化を経て、その〈位置づけられること〉が当然のことではなくなってしまいました。したがって、存在の意味と学習意欲を維持するためには、〈位置づけられること〉の仕掛けを新しく提供しなければならなくなっているといえるでしょう。これは学校と教育の歴史がそれ以前に出会ったことのない、歴史的事態です。

(1)子ども・若者は、必死になって、集団・つながりを求めている
居場所としての生活集団
いま、子ども・若者たちは自分の居場所を求め、仲間・つながりを求めています。当然です。自分の存在の意味は、社会集団の中に自分の位置を得て、周りから存在を認められて、はじめて確認することができるからです。そしてその生活集団がしっかりとあるから、その集団のルールの箍を自分にはめようと、我がままを抑える訓練を、意識せずとも自らくり返して、自分をコントロールする能力と技を形成していくのです。

主体的学習のための基地としての人間関係と集団
現代日本では、家庭や家業が生活と労働の学習の場になっている子どもはほとんどいません。現代社会では子どもがほとんど何もしなくても、最低の生活ならできるようになっているからです。
しかし、主体的能動的学習の基盤として、基地として、自分が学べば、他の人の学習や活動に役に立つ、そのような集団を、子どもたちは必要としています。自分の学習が意味あることだと見えてくるような、集団の中でのつながりです。
例えば、こんなことを思い浮かべてみてはどうでしょう。私たちがシッカリと見たり、聞いたり、発見したりしようとするのは、それを受けとめて理解して喜んでくれたり、感心してくれる人がいるからです。私の中に棲み込み、私を支える他者に伝えたくて見、聞き、発見するといってもいいのです。子どもにとっては特にそういう具体的な他者(身近な人・コミュニティ・集団)が必要なのです。

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加藤俊治