学校における教育・学習を支える集団・コミュニティの問題・・・④

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(3)近代学校教育と前近代社会の教育システムの併存と対立
近代学校は上のような特徴をもって17世紀にはじめて西洋社会に登場し、やがて世界中に広がり、20世紀になると教育といえばこの近代的な学校教育をイメージするようになりました。

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しかし、近代学校の教育と学習それ自体が成り立っていなかったにもかかわらず、大人や教師の側から見ると、かつては、教育が少なくとも授業崩壊のような形にはならず、成立しているように現れていたのはどうしてでしょうか。近代教育システムは狭い職業的・階層的・家族的・地域的教育にとって代わって、広い国家社会へ、人間社会への、教育をつくりだしたのですが、その広い一般的教育を目指す学校教育は、実は、狭い前近代的な教育システムの存続によって支えられてはじめて成り立っていたのです。つまり、奇妙なことですが、近代学校教育はそれが排除しようとした旧教育の支えによって成立していたということになります。それはこうです。

近代学校教育システムが普及した所でもなお、前近代社会の教育は存続していました。
商人・職人・農民・漁民の子どもは、学校で近代教育を受ける一方で、自分の家に帰ると学校における教育・学習を支える集団・コミュニティの問題
それぞれの家業を手伝いながら家業の存続と継承に必要な知識や技能や規範・慣習の教育が行われていました。日本では地域の若衆組の組織も存続していました。したがって近代社会の子どもたちは、学校と家業と家族と地域との、二重あるいは三重の教育を受けていたことになります。

ところが、近代教育を担当する教師やそれを研究する教育研究者たちは、学校教育以外の教育を軽視したり、無視したり、ときには敵視していました。
1950年代までは日本でも西洋先進国でも、そして発展途上国では今日でも、家業に従事する子どもたちは、学校に行く時間がなかったり、学校的学習の時間を削らなければならない場合がありました。

1950年代の日本の生活綴方には家の仕事が忙しくて学校に通えない悩みや、家で勉強していると家の仕事を手伝えと親に叱られるという話がたくさん出てきます。西洋でも同じです。

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そのように、学校教育と家業への従事は、時間の上で両立しなかったり、家業で疲れて授業中も家庭でも眠くて勉強することが出来ないという子どもたちもたくさんいましたから、いかにして、家業の過重負担から子どもを解放するか、ということが教師や研究者の課題になるのも当然のことでした。

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伝統的な教育への敵視や無視は、学校教育との時間の奪い合いだけではなく、内容上でもありました。明治の学制発足のころ、地域には強固な若衆組や子供組の組織がありました。明治啓蒙期においては、伝統的な村落の子ども・若者組織は、反啓蒙的な精神をもつものとして、一部の先進的な啓蒙家から批判の対象とされ、その活動は地方行政当局よって規制されるべきである、とさえ言われたこともありました。たとえば明治のはじめ、福山地方で地方議会制度や学校組織を立ち上げることに努力していたある医師は、村落共同体内の若者組織の解散を主張しました。そして「若連中」についてはこう言っています。

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苦労して設置した学校で教育をし、従順さを身につけた生徒も、若者組に入って1 年もするとまったく変わってしまうことがしばしばある、というわけです。
しかし地域の伝統的な若者組織はその後もずっと存続しました。1950年代初め、伊豆半島東海岸にある漁村・富戸には「若衆組」という強固な青年組織があり、当時気鋭の教育学者たちが、ていねいに行った調査報告があります。

その報告によると富戸の若衆組は、17歳の正月に加入し、29歳の正月に退会する。25歳以上のものを「大若衆」、24歳以下の者を「宿若衆」という。宿若衆は在郷中は若衆宿に合宿する義務がある。
若衆組の規約には、組織の目的をこう記しています。
「組員の修養を主眼として、これが向上発展を期し、相互の親睦を図り、且つ産業文化の向上に努め、併せて所有財産を管理し、区長、氏子総代と提携して祭典その他の行事を掌り、消防事業に従事するものとす」と。

メンバーは全人格的な拘束をうけ、私生活についても厳格な罰則がある。すなわち「絶交・譴責・使役・禁襪4)・謹慎・訓戒」の区別がある。加入式においては、新入者に若衆組の規約が教えられ、実践道徳が諭され、実行の誓約を行わせる。若衆組に入ることによって、漁撈において一人前の待遇をうけることができました。
若衆組の財政基礎は、共有林の管理や、若衆組としての出漁許可を与えられて、その成果を収入とする。部落の火災、林の防衛、海難救助に備えて、若衆組として団体訓練をし、祭礼の担い手として働きました。

そして調査をした教育学者たちは、その若衆組を批評して、知性よりも力が支配し、村の封建性を支えており、村の子どもたちは「青年の力の支配下にあるので学校の教師よりも青年たちのいうことをきく傾向がある」5)と批判的に記しています。若衆組の強力な自治性を戦後民主主義的自治につなごうなどとは、少しも考えていなかったようです。

1950年代においては、これほど強力な統制力をもつ若者組が存在した地域は、それほど多くはなかったと思いますが、50年代前半までは、日本のほとんどの村にはなんらかの形の伝統的な子ども・若者の自治的組織が存続していました。若者組が村の人間形成に非常に大きな役割をもっていたことは、紛れもないことですが、その報告からは青年期教育にとって意味のある組織であるとの肯定的評価はほとんど感じられません6)。(民俗学ではかなり早くから報告がありましたが、社会教育の分野で注目され研究がはじまったのは70年代になってからでしょう。)

 

 


加藤俊治