学校が「実力を育てる場所」に変わるべき理由

リンクより抜粋

2020年、日本の教育が一変します。学校で子どもに何を教え、どのような学力を育成するかを定めた「学習指導要領」が新しくなるからです。教科書や入学試験もこれに沿ってつくられ、小学校では2020年、中学校では2021年、高校では2022年から実施されます。新たな学校教育の幕開けです。

社会構造は今、産業革命以来の大きな転換期を迎えています。モノの生産を礎とする産業社会から、知識の創造と活用が駆動する知識基盤社会へという変化です。この流れを受けて、世界的な規模で教育改革が進行しています。学習指導要領を刷新するのも、新しい時代に対応するためです。

◆近代の学校では工夫・創造・疑問が「嫌われる」

そもそも、今日まで続く近代の学校制度は、18世紀イギリスに端を発する産業革命を契機として徐々に整備されていきました。産業革命は、それまでの農業社会から工業生産を基軸とする産業社会へという社会構造の一大転換をもたらします。

農業社会では、気まぐれな自然に翻弄される不安定な状況下での生産・労働を余儀なくされましたが、だからこそ人々は身の周りで生じるすべての出来事に注意を払い、思慮深く考えを巡らせ、よりよいあり方を求めてつねに工夫を怠らず、互いに協力して日々の生活や仕事の改善にあたりました。

一方、産業社会は、人為に基づく計画的で安定的な生産・労働環境を人々にもたらしましたが、それは同時に、自分の才覚をかけた工夫を求められもしなければ認められもしないあり方へと、人々の精神を導く契機ともなりました。

チャップリンが映画『モダン・タイムス』で描いたように、産業社会は、産業機械のように単純で定型的な労働を淡々と遂行できる能力と心性を人々に求めたのです。

この新たに生じた労働需要に対し、大量の人材を効率的に供給する社会装置として整備されたのが近代の学校です。

そこでは、教師から教わった「正解」をそのままの形で保持し、迅速かつ正確に再生することが「学力」の中核となりますが、それは当時の工業生産の特質と酷似しています。自らの意思で工夫や創造を試みたり、いわんや疑問を差し挟んだりすることは、疎んじられこそすれ決して歓迎されません。

テストでは自分の頭で考えたことではなく、先生から教わったことや教科書に書いてあるとおりの答えが評価されたのも同様の理由によります。教師に質問を繰り返したがゆえに、わずか3カ月で放校処分となったエジソンの逸話は、近代学校の独特な風土をよく象徴しています。

これに対して新学習指導要領は、近代学校制度のあり方を問い直すものです。その最大の特徴は学力論の大幅な拡張にあります。大学入試制度の刷新を含む高大接続改革も、これと連動しています。

◆学力と実力がイコールでなかった学校教育

学力というと、知識量のこととイメージされがちですが、知識の習得それ自体は最終ゴールではありません。習得した知識を自在に活用して、洗練された問題解決を成し遂げ、よりよい人生を送れる――。そこまでを視野に入れる必要があります。グーグルで検索すれば数秒でわかることを覚えていても、これからの時代は生き抜けません。

世界では、未知の状況における問題解決に必要な「資質・能力」(コンピテンシー)を明確化したうえで、学校のカリキュラムや授業、テストをトータルでデザインし直す動きが活況を呈しています。

新学習指導要領もこの流れの中にあります。教育に関する主要な問いは、「何を知っているか」から「何ができるか」へと変わり、より詳細には「どのような問題解決を現に成し遂げるか」へと転換されます。
新学習指導要領では、学校教育の守備範囲を「知識・技能」の習得にとどめることなく、問題が起きた場面で効果的に活用する「思考力・判断力・表現力等」にまで高めます。さらに、粘り強く問題解決に取り組む力や感情の自己調整能力、複雑な対人関係に対応する力をも含む「学びに向かう力・人間性等」も育成することとしました(図表)。

このような動きに対し、「それは『学力』ではなく『実力』ではないか」という指摘があります。この指摘は、従来の学校教育が実社会・実生活の問題解決に生きて働く「実力」とは程遠いものを「学力」として育ててきたことを暗に示しています。
新学習指導要領における「学力」とは、人生を主体的、協働的、創造的に切り開いていく力のことです。こうした「学力」を小・中・高の12年間を通してすべての子どもたちに計画的、組織的に育成できれば、日本の経済・社会も活性化するかもしれません。

 

 

 

 

華里