学校不要論② ~学校教育の価値と課題~

学校不要論の続き。「全ての教育者のためのメディア。REAL」リンク より転載。

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学校不要論②~学校教育の価値と課題~

2018.03.03
by 若尾和紀 

「学校不要論」に関する議論の続きです。この記事では、昨日までの学校教育の提供する価値を見ていきましょう。

 昨日までの学校教育の価値の最も大きなものは、体系的な知識の伝達であったことは言うまでもないでしょう。書物自体が高価で貴重であった中世や近世はもちろん、インターネットや動画技術の未発達だった数十年前までは、教室で教師によって行われるレクチャーに一定の価値を見出すことは難しくはなかったでしょう。

「学校」以外の選択肢の台頭

 しかし今日、情報技術のすさまじい発展が、こうした教室での一方的な情報提供の価値を相対的に大きく減じました。米国の教育NPOカーン・アカデミーや、リクルートの展開するスタディサプリなどに代表される民間ベースの教育サービスが次々に興り、講義法に精通した一流インストラクターのレクチャー動画を安価(または無料)で見ることができるようになってきています。また、カーン・アカデミーのウェブサイトではレクチャーの動画に沿った問題演習ができるようになっており、個人の習熟度に合わせて受講と演習を好きなだけ繰り返したり、習得済みの内容は飛ばしたりしながら、自分のペースで学習を進めていくことができるようになっています。学習者ひとりひとりに合った”パーソナライズ”された教育を、学校に来る必要なく(いや、学校より効果的に)受けることができる時代になりつつあります。
学校教育が抱える課題

 そもそも、同じ年齢の学習者たちが、同じ内容を同じペースで勉強している状況の異常さはどうでしょう。学習者ひとりひとりは興味関心も既有の知識も理解力も異なっているので、各々に最適なペースを無視して一律に一方的な講義を強いるやり方は暴力的であると言わざるを得ません。技術の発達によってよりパーソナライズされた知識伝達が可能になった今、旧来の講義形式の学校教育が価値を失うのは当然の帰結です。
 また、「体系的に伝達される知識」じたいの価値も大きく減じました。浦賀にペリー率いる黒船が来航したのが1853年であることは、誰もが携帯している手のひら大の端末で瞬時に調べることができます。さらには、その1853年が嘉永6年であること、詳細な日付は7月8日であることなど、教師の記憶や教科書の記述にもないことまで教えてくれます。

求められる人材像

 それでは、これからの世の中で求められる能力とはどのようなものでしょうか。それは、知識を豊富に蓄えることではなく、問題を発見し、知識を組み合わせて活用しながら解決策を見いだしてゆく、問題発見能力・問題解決能力です。経団連が発表した『国立大学改革に関する考え方』(経団連ホームページリンクでも、経済界が求める人材像について以下の能力を挙げています。
幅広い教養、課題発見・解決力、外国語によるコミュニケーション能力、自らの考えや意見を論理的に発信する力
 では、単なる知識の蓄積にとどまらないこのような能力を、授業においてどう伸ばすことができるでしょうか。先の歴史の例で考えてみましょう。黒船来航の年号や日時を正確に記憶していることじたいにはたいした意味はありません。しかし、そうした知識が活用され得る場面はあります。たとえば、授業の切り口となる問いを工夫し、
「なぜ日本の開国を強力にはたらきかけた国は米国だったのか?」
というテーマ・クエッションを設定したとしましょう。当時の歴史的・地理的背景を学んでゆくうちに、
「なぜ極東での利権に貪欲だったロシアではなかったのか」
「なぜ米国より国力のある英国やフランスではなかったのか」
といった課題につき当たるかもしれません。そのとき学習者が、黒船来航の年号とヨーロッパ列強の間で激化していたクリミア戦争の年号が一致することに気付けば、クリミア戦争(特に黒海での制海権をめぐって行われたセヴァストーポリ要塞の戦い)でのおびただしい犠牲と出費のためにロシアも西欧列強も極東にまで手が回らない状況であったという仮説を立てるかもしれません。学習者は自身の仮説を強固にするために黒船来航の詳細な日時や計画段階での米国の動きなどを学び、またクリミア戦争の経緯や列国の犠牲を、日本史のタイムテーブルと照らし合わせながら主体的に調べてゆくでしょう。
学校は不要か?

 このように、課題を設定し、課題に対して得た知識を活用しながら答えや解決策を考えて発信する教育が今後求められてゆくことになります。もっとも、知識が重要なのは変わりません。上の例のように、年号の記憶が意味をもつ場合もあります。しかし、どのような目的で、どのように知識を身に付け、どのように活用してゆくのかに力点を置くという点において、根本的な変化が要求されています。上の例では、明確な目的に対して知識を活用することができたからこそ、年号の記憶が意味を持ちました。従来の一律に行われる一方的な講義では、この変化の要求を満たしてゆくことはできないでしょう。
 こうした現状の中で、学校教育が変化に乗り遅れ、今まで通りの価値しか提供できないのであれば、学校不要論を否定することはできないでしょう。従来の学校で行われてきたことが学校の外でより効率的に行えてしまうのであれば、疑うべきもなく学校は不要ということになります。それでも、私は学校は存在し続けるべきであると考えています。なぜなら、こうした時代にあっても、学校が担うべき教育上の役割があると思うからです。

(以上)

 

 

 

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