本来の予習とは、未知なる興味を自ら育てるもの

予習をして学校へ行く

あらかじめ問題集を解いて学校へ行く

受験勉強をして入試を受ける

これはすべて同じ性質の予習で、その内容は、答え合わせをするための勉強です。

だから勉強熱心な子ほど学校に行く意味は少ないのかもしれません。

答えが入手できれば自己完結できるからです。

しかし、それは本当に勿体ない、場の使い方です。

答えを踏み台にして跳躍したり、答えの精度をあげたり、ときには答えを疑ったり。

まんまと学校の誘導=考えられない子を育てること

に乗っからないで、授業を発展的にぶち壊してしまうような発想の練習をすれば良いと想います。

こう答えないと丸がもらえない、そんな恐怖心や強迫観念から脱出するには

学校の外ではどう考えられているか、最先端の研究ではどう考えられているか、などのように学校の壁を乗り越えることが手っ取り早いです。

逆に言えば本来の予習とは現時点での最先端可能性収束にたどり着いて、自分の考えを示すことです。

いてもたっても興味が尽きないレベルになれば、小中学生でも大学の聴講生の片隅に置いてもらえるかもしれないし、本の作者に手紙を出せば子どもだからこそ優先的に反応が得られるかもしれません。


おそらく素人が委縮して発言できない原因の一つは、答えの階層構造にあると想います。

小学校での正解、中学校での正解・・・大学院での正解

いつまでたっても正解にたどり着かない仕組み。悪く言えば知るということに身分資格を設けいるわけです。

これは悪質な詐欺です。

子どもも大人も知りたいということは、とことん知りたいということです。

そこをわざと階層化して、自分には発言する資格はない、知る資格はないと思わせることは詐欺です。

しかし例えば寺子屋風の塾でしたらどうでしょう。おそらくよほど忙しくない限り、とことん知りたいことに応えようとするでしょう。

そして答えられないレベルに達すると、師弟共に対等な研究家になります。

それよりもなによりも、そんな子に育ってくれたことが嬉しいし、そんな子の仲間になれたことを喜ぶでしょう。

未知なる興味のもとでは年齢など関係なくなる、現代人の警戒心の出所の一つがようやく見つかったような気がします。

 

 

 

 

佐藤英幸